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推し活してるおばさんは気持ち悪い?痛い?ええやん、それで。

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「いい歳して推し活してるおばさんって、ちょっと痛くない?」

そんな言葉を見かけることがある。

若いアイドルにキャーキャー言っている。

ライブではペンライトを振っている。

推しのアクスタを持ってカフェに行き、ケーキの横に置いて写真を撮っている。

新しいグッズが発売されたら買う。

同じCDを何枚も買う。

ライブがあれば遠征する。

SNSには推しの写真。

スマホの待ち受けも推し。

バッグには推しのキーホルダー。

推し、推し、推し。

それを見て、

「いい歳して……」

と思う人がいるらしい。

なるほど。

確かに、痛いのかもしれない。

僕だって、まったく興味のないアイドルについて50歳くらいの女性から猛烈な勢いで語られたら、

「お、おう」

くらいにはなると思う。

知らない人のアクスタを見せられて、

「今日の○○くん、ビジュ良すぎない?」

と聞かれても、

「そ、そうですね」

くらいしか言えない。

知らんからだ。

その人がどれほど素晴らしいのかも知らない。

どの曲がいいのかも知らない。

昨日のライブで何があったのかも知らない。

だから、その人の熱量だけが僕の目の前にドンと置かれる。

そら、ちょっと異様には見える。

でも、そこで思う。

それって、本当にその人が痛いのだろうか。

ただ単に、僕とその人の熱量が違いすぎるだけなんじゃないだろうか。

目次

興味がない人から見れば、熱量はだいたい痛い

人間は、自分がまったく興味のないものに注がれる巨大な熱量を理解できない。

これは推し活に限った話ではない。

たとえばサッカー。

僕がまったく興味のないチーム同士の試合を見ているとする。

ボールがゴールに入った。

その瞬間、知らないおじさんたちが立ち上がって絶叫する。

「うおおおおおお!」

隣の人と抱き合う。

泣いている人までいる。

冷静に考えたら、なかなかすごい光景だ。

ボールが網の中に入っただけである。

もちろん、ファンにとっては「だけ」ではない。

そこまでの試合展開がある。

選手の努力がある。

チームの歴史がある。

ずっと応援してきた時間がある。

だから泣く。

でも、それを知らない人間から見れば、

「ボール入っただけやん」

になる。

車だってそうだ。

車が好きな人は、ホイールに何万円も使う。

僕にはよく分からない。

「それ、最初についてたやつじゃあかんの?」

と思う。

でも本人にとっては全然違うのだろう。

服だってそうだ。

10万円の服を買う人がいる。

ブランドやデザイン、生地、シルエット、作り手の思想。

そこに価値を感じる人にとっては、10万円を払う理由がある。

でも待て。

推しに10万円使っているおばさんを見て、

「うわ。そんなものに10万円も使うの? 痛い」

と言っている人。

俺からしたら、10万円の服を買ってるお前のほうが痛いぞ。

布やぞ。

……と言われたらどうだろう。

たぶん腹が立つ。

「いや、このブランドには価値があって」

「生地が全然違って」

「長く着られるし」

いろいろ説明したくなるはずだ。

そう。

あなたには価値があるのだ。

だったら同じだ。

推しのライブに10万円使う人にとっては、その時間に10万円の価値がある。

遠征して、新幹線に乗って、ホテルに泊まって、グッズを買う。

興味のない人からすれば、

「そこまでして行く?」

と思う。

本人からすれば、

「そこまでしてでも行きたい」

のである。

価値観が違う。

注ぐ熱量が違う。

注ぐお金が違う。

それを、その価値が分からない他人が外側から見る。

そら、痛くも見える。

みんな、それぞれ痛い

たぶん人間なんて、掘ればみんな何かしら痛い。

毎週ゴルフに行く人。

釣り道具に何十万円も使う人。

高級時計を何本も集める人。

車をピカピカに磨いて、しばらく眺めている人。

好きなサッカーチームが負けて、本気で機嫌が悪くなる人。

ゲームの中のアイテムに課金する人。

限定スニーカーを何足も集める人。

何百冊も本を買って部屋に並べている人。

興味のない人から見たら、全部ちょっと変だ。

「なんで?」

である。

でも本人には「なんで?」ではない。

好きだから。

それだけだ。

僕は本が好きなので、本屋に行けば何冊も欲しくなる。

家にまだ読んでいない本があったとしても欲しくなる。

本を読まない人からしたら、

「まだ家にあるんやろ? それ読んでから買えば?」

と思うかもしれない。

正論である。

うるさい。

欲しいのだ。

たぶん推し活している人も同じなのだろう。

「似たようなアクスタ持ってるやん」

違う。

たぶん違うのだ。

僕には分からない。

でも違うのだろう。

服が好きな人に、

「黒い服いっぱい持ってるやん。それ全部同じやろ」

と言ったら怒られる。

電車が好きな人に、

「電車なんて全部同じやろ」

と言ったら、おそらく30分くらい説明される。

興味のない人間には同じに見える。

好きな人には全然違う。

そう考えると、

「痛い人」と「痛くない人」がいるわけではないのかもしれない。

自分の痛さは、自分にとって普通だから気づいていないだけだ。

僕から見ればあなたが痛い。

あなたから見れば僕が痛い。

別の誰かから見れば、僕たち二人とも痛い。

みんなそれぞれ痛い。

ええやん、それで。

でも、なぜ「おばさん」は特に痛いと言われるのか

ただ、推し活について考えていると、一つ気になることがある。

それが年齢だ。

「推し活してる女性は痛い」

ではなく、

「推し活してるおばさんは痛い」

という言い方をよく見る。

ここには明らかに年齢が入っている。

20歳くらいの女性がアイドルを見て、

「キャー! かっこいい!」

と言っていても、それほど不思議には思われない。

推しカラーの服を着る。

ペンライトを振る。

アクスタと写真を撮る。

ライブに遠征する。

若ければ「推し活」として普通に見える。

ところが、同じことを50代くらいの女性がすると、

「いい歳して」

という言葉が突然くっついてくる。

不思議だ。

やっていることは同じなのに。

年齢が変わっただけである。

では、何歳までならいいのだろう。

29歳?

30歳になった瞬間にアクスタを捨てるのか。

39歳まで?

40歳の誕生日を迎えた瞬間、ペンライトを事務所へ返却するのか。

「長い間ありがとうございました」

何の卒業式やねん。

推し活に定年退職でもあるのだろうか。

65歳になったら、

「長年にわたり推しを応援していただき、誠にありがとうございました」

と退職金代わりに最後のアクスタでも送られてくるのか。

そんなものはない。

人間は、誕生日を迎えたからといって突然好きなものが変わるわけではない。

20代で好きだった歌手を30代でも好きかもしれない。

30代で好きになった俳優を50代でも応援しているかもしれない。

10年、20年と応援しているうちに、当然ファンも歳を取る。

当たり前だ。

推しだけ時間が進んで、ファンだけ永遠に20歳なんてことはない。

好きなものと一緒に歳を取っていく。

それの何がおかしいのだろう。

「年相応」って誰が決めたんだろう

たぶん「痛い」の中には、

その年齢なら、こういう振る舞いをするべきだ

という考えが混ざっている。

特に女性には、

「いい歳なんだから落ち着いたほうがいい」

「若い子みたいにはしゃぐのは痛い」

みたいな視線が向けられやすい気がする。

でも僕は、この「年相応」という言葉がよく分からない。

50歳になったら何を好きになればいいのだろう。

急に盆栽なのか。

昨日までアイドルを追いかけていたのに、50歳の誕生日を迎えた瞬間、

「さて、松でも育てるか」

となるのだろうか。

ならない。

もちろん盆栽が好きなら最高だ。

好きなだけ松を育てればいい。

でも、アイドルが好きならアイドルを見ればいい。

60歳でアニメが好きでもいい。

70歳でゲームしてもいい。

80歳でライブに行けるなら行けばいい。

年齢を重ねるというのは、好きなものを一つずつ手放して、世間が用意した「大人らしい趣味」に交換していくことではないはずだ。

そもそも「年相応」を気にしすぎると、人生はどんどん狭くなる。

これは若すぎる。

これは子どもっぽい。

これはおばさんっぽい。

これはおじさんっぽい。

これは今さら始めるには遅い。

これは若い子がやるもの。

そんなことを一つ一つ気にしていたら、最後に何が残るのだろう。

誰にも痛いと思われない人生。

それはそれで安全かもしれない。

でも、僕にはあまり面白そうには見えない。

同じものを好きなのに、なぜファン同士で笑うんだろう

そして推し活について、もう一つ面白いことがある。

同じ推しを好きな人同士でも、年齢を理由に批判することがあるということだ。

これ、よく考えたらかなり面白い。

同じアイドルが好き。

同じライブに来ている。

同じ曲を聴いている。

同じグッズを買っている。

同じ人を見に来ている。

それなのに、

「あのおばさん、いい歳して痛くない?」

いや。

お前ら仲間やぞ。

同じ会場におるがな。

下手したら同じペンライト持っとるがな。

しかも今、目の前に推しがおるんやろ。

お前、そんな他人の年齢を気にしてるようじゃ、本物の推しではないぞ。

隣のおばさんを見るな。

ステージを見ろ。

推しがそこにいるぞ。

何をしに来たんだ。

ライブ中に、

「あの人、何歳くらいかな」

なんて考えている場合ではない。

推しを見ろ。

目に焼き付けろ。

せっかくチケット代を払って来たんだ。

他人の年齢を観察している時間がもったいない。

そして、もし若いファンが年上のファンを見て、

「いい歳して、まだこんなことしてるんだ」

と思っているなら、僕は一つ言いたい。

数年後、お前もそう言われてるぞ。

数年後、今度はあなたが「痛いおばさん」になる

今20歳だとする。

推しが大好きだ。

毎日曲を聴いている。

ライブにも行く。

グッズも買う。

友達と推しについて何時間でも話せる。

でも、30歳になったら突然興味がなくなるのだろうか。

そんなことは分からない。

ずっと好きかもしれない。

気づけば40歳。

それでもライブに行っているかもしれない。

そこへ新しく10代のファンが入ってくる。

その子から見れば、あなたは立派な「おばさん」である。

そして言われる。

「あの人、40歳くらいなのにまだ推し活してる。痛くない?」

そのとき、たぶん思う。

「好きなだけなのに」

そう。

今あなたが「痛い」と笑っている人も、好きなだけなのだ。

その人にも20歳の頃があった。

若い頃に好きになったのかもしれない。

最近好きになったのかもしれない。

そんなことはどっちでもいい。

今、好きなのだ。

あなたと同じだ。

人は歳を取る。

これは全員に起こる。

「おばさん」を笑っている若い女性も、いつか年齢だけ見れば「おばさん」と呼ばれる側に行く。

避けられない。

だったら、自分がその年齢になったときに生きやすい世界を作っておいたほうがいい。

40歳になっても好きなものを好きと言える。

50歳になってもライブに行ける。

60歳になってもペンライトを振れる。

そのほうが楽しそうじゃないか。

そもそも、そんなに他人の金の使い方が気になるか

推し活が批判されるとき、お金の話もよく出てくる。

「グッズに何万円も使ってる」

「遠征に何十万円も使ってる」

「同じCDを何枚も買ってる」

確かに、生活が破綻するほど使うなら話は別だ。

借金をしてまで使う。

家賃が払えない。

生活費がなくなる。

そこまで行けば推し活に限らず考えたほうがいい。

でも、自分で働いたお金の範囲で楽しんでいるなら、基本的には本人の自由だ。

10万円のバッグを買う。

10万円の旅行に行く。

10万円の服を買う。

10万円の食事をする。

10万円をライブ遠征に使う。

金額は同じである。

違うのは、そこに価値を感じるかどうか。

僕が10万円の服を見て、

「高っ!」

と思ったところで、買った本人が満足しているならそれでいい。

逆も同じ。

推しのグッズに10万円使った人を見て、

「そんなものに?」

と思っても、本人にとっては「そんなもの」ではない。

僕たちはつい、

自分が理解できないお金の使い方だけを浪費と呼ぶ。

でも、自分の趣味に使ったお金は「必要経費」みたいな顔をする。

ずるい。

みんな同じだ。

痛いくらい好きなものがある

ここまで考えて、僕は「痛い」という言葉自体、そんなに悪いものなのかと思えてきた。

そもそも何かに夢中になったら、多少は痛くなる。

冷静ではいられなくなる。

欲しくなる。

会いたくなる。

語りたくなる。

人に勧めたくなる。

写真を撮りたくなる。

集めたくなる。

遠くまで行きたくなる。

普通なら使わないようなお金を使いたくなる。

それが熱量なのだと思う。

何にも興味がなくて、何にも夢中にならず、何にも心を動かされなければ、たぶん痛くはならない。

ずっと冷静でいられる。

でも、それが必ずしも幸せとは限らない。

好きなものを見つけて、

「うわ、最高!」

と思える。

新しい情報が出ただけで嬉しい。

ライブの日が近づいてくるだけで仕事を頑張れる。

嫌なことがあった日も、推しの動画を見たら少し元気になる。

次のライブまで頑張ろうと思える。

そういう存在がいる。

それって、結構すごいことだと思う。

誰かから見れば痛い。

でも本人の人生には、ちゃんと光が増えている。

だったらもう、

痛くてええやん。

推し活してるおばさんへ

だから、もしあなたが推し活をしていて、

「もうこんな歳だし」

と思っているなら、僕は別にやめなくていいと思う。

周りから、

「いい歳して」

と言われた。

SNSで、

「おばさんの推し活は痛い」

という言葉を見た。

ライブ会場で若い人ばかりに見えて、少し恥ずかしくなった。

そんな日もあるかもしれない。

でも。

ええやん、それで。

推しを見て元気になるんだろう。

楽しいんだろう。

次に会える日を楽しみに仕事を頑張れるんだろう。

だったら、ええやん。

かっこいいじゃないか。

ペンライトを振れ。

もっと振れ。

普段の仕事なんて忘れて、がむしゃらに振れ。

今日くらい、上司の顔なんて忘れてしまえ。

明日の仕事も忘れろ。

家事も忘れろ。

嫌だったことも忘れろ。

年齢も忘れろ。

推しが目の前にいるんだろう。

だったら見ろ。

叫べ。

笑え。

泣け。

キャーキャー言え。

推しカラーの服を着ろ。

アクスタと写真を撮れ。

欲しいグッズがあって、自分のお金で買えるなら買え。

遠征したいなら行け。

「いい歳して?」

知らん。

「痛い?」

知らん。

いや。

痛くてもええやん。

若い子より先に腕が疲れたっていい。

途中で腰が痛くなったっていい。

翌日、ペンライトを振った腕が筋肉痛になったっていい。

また明日から仕事に行けばいい。

またいつもの生活に戻ればいい。

だから今くらい、思いっきり夢中になればいい。

人生なんて、ずっと冷静でいるには長すぎる。

他人の「痛い」を気にして、好きを小さくしなくていい

もちろん、誰かに迷惑をかけていいという話ではない。

ライブにはルールがある。

周りへの配慮も必要だ。

生活を壊すほどお金を使う必要もない。

でも、そういう話と、

「おばさんが推し活するのは痛い」

という話は別だ。

ただ好きでいること。

ただ応援すること。

ただライブで楽しむこと。

そこに年齢制限なんてない。

他人に痛いと思われないために、自分の「好き」を小さくする必要なんてない。

そもそも、その人はあなたの人生に責任を持ってくれない。

「痛い」と言った人が、明日の仕事を頑張る力をくれるわけではない。

落ち込んだ日に笑わせてくれるわけでもない。

休日を楽しみに変えてくれるわけでもない。

だったら、自分を楽しくしてくれるものを大切にしたほうがいい。

あなたの人生なのだから。

そして、推し活しているおばさんを「痛い」と思っている人にも言いたい。

別に痛いと思ってもいい。

価値観が違うのだから、そう見えることもある。

僕だって、理解できない趣味はいくらでもある。

でも、そのとき少しだけ考えてみればいい。

自分には、他人から見れば痛いものが本当に一つもないだろうか。

好きな服。

好きな車。

好きなゲーム。

好きなスポーツ。

好きな食べ物。

好きなブランド。

好きな本。

好きな音楽。

そこに使っている時間。

そこに使っているお金。

そこに注いでいる熱量。

きっと何かある。

なかったとしても、それはそれでいい。

ただ、夢中になっている人を笑う必要もない。

価値観も違う。

注ぐ熱量も違う。

注ぐお金も違う。

違う人間なんだから、当たり前だ。

外から見れば、そら痛い。

でも、その「痛さ」の中に、その人の楽しさがある。

その人の生きる力がある。

その人だけの大切な時間がある。

だったら僕は思う。

みんなそれぞれ痛くていい。

50歳でペンライトを振ってもいい。

60歳で推しの名前を叫んでもいい。

70歳でアクスタと写真を撮ってもいい。

周りから見れば痛いかもしれない。

でも、そんなものは知らん。

推しが好きなら、推しを見ろ。

他人の年齢なんて見ている場合じゃない。

そしていつか、自分も歳を取る。

そのときも好きなら、堂々と好きでいればいい。

好きなものと一緒に歳を取る。

僕は、それでいいと思う。

いや。

結構、かっこいいと思う。

だから僕は、おばさんの推し活を推す。

ペンライトを振れ。

普段の仕事を忘れて、がむしゃらに振れ。

誰かに笑われたら、好きなだけ笑わせておけばいい。

どうせみんな、それぞれどこか痛い。

そして僕は、そんなおばさんたちに向かって、

「もっとやれ」

と思っている。

僕は、おばさんの推し活を推す。

そんな僕も、たぶん痛いやつだ。

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