MENU

映画のエンドロールは見る?帰る?途中で席を立つのは失礼・マナー違反なのか。

当ページのリンクには広告が含まれています。

映画が終わった。

主人公の最後の言葉が残り、画面が暗くなる。

少しして、音楽が流れ始めた。

エンドロールだ。

出演者の名前が流れる。

監督の名前が流れる。

撮影、照明、美術、衣装、音響。

映画を作った、たくさんの人たちの名前が下から上へと流れていく。

僕はそれを眺めながら思う。

帰りたい。

いや、映画が面白くなかったわけではない。

むしろ面白かった。

十分に楽しんだ。

満足している。

だからこそ映画が終わった今、僕の中では非常に自然な流れとして、

「よし、帰ろう」

となっている。

ところが、立てない。

なぜなら、誰も立たないからだ。

前の人も座っている。

隣の人も座っている。

後ろからも立ち上がる気配がない。

みんな静かにスクリーンを見つめている。

なんだ、この空気は。

帰ったらダメなのか。

僕は一度、腰を浮かせようとする。

しかし、その瞬間。

頭の中に知らない誰かの声が聞こえてくる。

「あ、この人、余韻を大切にできない人なんや」

……。

座る。

もう一人、脳内に現れる。

映画を年間300本くらい観ていそうな人だ。

黒いタートルネックを着ている。

たぶん家には映画のパンフレットが大量にある。

そいつが僕を見ながら言う。

「あ、この人、映画分かってない」

……。

僕は静かにスクリーンへ視線を戻す。

何をしているんだ。

誰もそんなこと言ってない。

そもそも周りの人は僕のことなんて見ていない。

僕がエンドロールの途中で帰ったところで、5秒後には存在すら忘れているだろう。

分かっている。

分かっているのに、帰れない。

目次

おい、全員通ぶるな

改めて周りを見てみる。

みんなスクリーンを見ている。

真剣だ。

前のお兄さんなんて、腕を組んでいる。

微動だにしない。

映画の世界からまだ戻ってきていないような顔をしている。

隣の人も静かだ。

少し顎を引き、スクリーンを見つめている。

完全なる、

余韻顔。

……。

お前。

その顔ほんまか?

本当に今、映画について考えているのか。

主人公の選択について考えているのか。

あのラストシーンの意味を噛み締めているのか。

それとも、

晩飯どうしよ。

とか考えてないか。

ほんまかお前。

僕はだんだん疑い始める。

スクリーンには海外スタッフらしき名前がものすごい勢いで流れている。

もちろん、この映画を作った大切な人たちだ。

その人たちがいなければ、この映画は完成していない。

それは分かる。

しかし僕は今、その名前をほとんど読めていない。

流れている文字をただ目で追っている。

前のお兄さんはどうだ。

読んでいるのか。

一人ずつ確認しているのか。

「おお、今回もこの人が照明を担当してるのか」

とか思っているのか。

ほんまか。

おい、全員通ぶるな。

もちろん、本当に最後まで見たい人もいるだろう。

エンドロールの音楽が好きな人もいる。

余韻に浸りたい人もいる。

制作スタッフを確認するのが好きな人だっている。

最後に追加映像がある作品もある。

だから、座っている人を本当に疑っているわけではない。

ただ僕は知りたい。

この客席にいる全員が、本当に自分の意思で座っているのか。

一人くらいいるんじゃないか。

僕と同じ人が。

「帰りたいけど、誰も立たないから座っている人」が。

いや。

一人どころじゃないかもしれない。

もしかすると、

全員だったりして。

エンドロールは最後まで見るのが礼儀なのか

そもそも、映画のエンドロールを途中で切り上げて帰るのは失礼なのだろうか。

なんとなく僕の中には、

「最後まで見る人=映画を大切にしている」

「途中で帰る人=せっかち」

みたいなイメージがある。

でも、よく考えたら変だ。

映画の楽しみ方なんて人それぞれである。

最後まで座って余韻を楽しむ人もいれば、物語が終わったところで満足して帰る人もいる。

どちらかだけが正しいわけではない。

映画館によっては、上映終了時刻そのものがエンドロールを含めた時間になっている。

だから最後まで座っていることは、もちろん何もおかしくない。

一方で、上映中に途中退出してはいけないという一般的な決まりがあるわけでもない。

周囲の鑑賞を大きく邪魔しないよう配慮する必要はあるが、エンドロールが始まった瞬間に出口へ向かったからといって、その人が作品を軽く扱っているとは限らない。

終電があるかもしれない。

トイレに行きたいのかもしれない。

子どもが待っているのかもしれない。

単純に、物語が終わったから帰るだけかもしれない。

事情なんて外からは分からない。

なのに僕は、誰にも言われていないのに勝手に、

「最後まで見なければ映画好きとして失格」

みたいな試験を自分に課している。

試験官もいない。

合格証もない。

何を受験しているんだ。

そもそも、エンドロールは昔からこんなに長かったのか

ここで気になった。

そもそもエンドロールって、昔からこんなに長かったのだろうか。

調べてみると、どうやらそうではない。

現在では映画の最後に大量のスタッフ名が流れる光景がおなじみだが、古い映画では主要な出演者やスタッフのクレジットを作品の冒頭にまとめ、最後は「THE END」や「終」といった表示で終わる作品も珍しくなかった。

つまり昔の映画では、

物語が終わる。

「THE END」。

終わり。

分かりやすい。

僕みたいな人間には非常にありがたい。

「帰るべきか。残るべきか」

などと座席で哲学を始める暇がない。

終わったから帰る。

それでいい。

その後、映画制作の仕組みが変化していく。

映画会社に所属するスタッフだけでなく、作品ごとに多くの人や会社が制作へ関わるようになり、映画そのものの規模も大きくなっていった。

さらに現在では、VFX、CG、デジタル処理など、一本の映画に関わるスタッフや企業の数が膨大になることも珍しくない。

当然、

名前が増える。

名前が増えれば、クレジットも長くなる。

海外の大作映画を観ていると、

「まだいるのか」

と思うほど人の名前が流れてくることがある。

いや、失礼。

いる。

めちゃくちゃいる。

僕が2時間ぼーっと座って観ていた映像の裏側で、とんでもない人数が働いている。

そう考えると、エンドロールを見る時間は、

「映画ってこんなに多くの人で作ってるんやな」

と実感する時間でもある。

これは結構好きだ。

俳優だけではない。

監督だけでもない。

照明を作った人がいる。

衣装を作った人がいる。

音を録った人がいる。

編集した人がいる。

CGを作った人がいる。

ロケーションを探した人もいる。

映画に映るほんの数秒のために仕事をした人もいるだろう。

エンドロールは、その人たちの名前が残る場所でもある。

なるほど。

それなら最後まで見る人の気持ちも分かる。

むしろ僕がさっき、

「おい、全員通ぶるな!」

とか言ったことを少し反省する。

すまん。

お前のその余韻顔。

本物かもしれない。

……。

でも隣を見る。

腕を組んでスクリーンを見ている。

……。

お前はほんまか?

まだ少し疑っている。

なぜ最後まで見るのか

考えてみれば、エンドロールまで残る理由は「余韻」だけではない。

音楽を聴きたい人もいる。

映画の主題歌が流れることもあるし、劇中で使われた音楽が流れることもある。

映画が終わった直後にその音楽を聴きながら座っている時間が好きな人もいるだろう。

知っている俳優やスタッフの名前を探す人もいる。

ロケ地や協力企業を見るのが好きな人もいる。

「あ、この場所で撮ってたんや」

「この会社が協力してたんや」

そんな発見もある。

単純に混雑を避けたい人もいるかもしれない。

みんなが一斉に出口へ向かう時間を避けて、少し待ってからゆっくり出る。

これは賢い。

そして、

何も考えずに座っている人

もいると思う。

これも別にいい。

映画を見終わったあとくらい、何も考えなくてもいい。

僕みたいに、

「なぜこいつは座っている?」

「余韻顔は本物なのか?」

「帰るのは失礼なのか?」

と、周囲の人間を勝手に分析し始める方がおかしい。

みんなそれぞれの理由で座っている。

だから本来、

誰がいつ立ってもいい。

僕も帰ればいい。

よし。

帰ろう。

しかし、隣に余韻顔がいる

ここで新たな問題が発生する。

僕が通路側ならいい。

立って、そのまま出ればいい。

しかし中央付近に座っていた場合、そうはいかない。

隣に人がいる。

しかも、

余韻顔をしている。

困った。

めちゃくちゃ映画の世界に浸っているように見える。

この人の前を通らないと帰れない。

僕が立つ。

荷物を持つ。

上着を着る。

「すみません」

と言う。

狭い座席の間を横向きで進む。

「すみません……すみません……」

足を踏まないようにする。

ドリンクホルダーにも気をつける。

暗い。

そして僕の尻が、スクリーンと余韻顔の間を横切る。

最悪である。

主人公の人生を静かに噛み締めている人の視界を、

僕の尻が通過する。

これは申し訳ない。

僕自身がエンドロールを見たいわけではない。

でも、見たい人の邪魔はしたくない。

だから座る。

つまり僕は、

エンドロールを見たいから座っているのではなく、エンドロールを見たいかもしれない他人のために座っている。

ややこしい。

しかも、ここで恐ろしい可能性に気づく。

隣の人も同じだったらどうしよう。

僕「隣の人、余韻に浸ってるから立てないな」

隣「隣の人、余韻に浸ってるから立てないな」

二人とも、

😌 😌

こんな顔でスクリーンを見ている。

しかし頭の中では、

僕「はよ立てや」

隣「はよ立てや」

だったらどうする。

誰も映画の余韻に浸っていない。

互いの余韻を尊重した結果、存在しない余韻を二人で守っている。

なんなんだこれは。

勇者が現れる

そんなことを考えていると、

ガタッ。

音がした。

誰かが立った。

来た。

勇者だ。

エンドロールの途中で立ち上がった。

迷いがない。

荷物を持ち、通路へ向かっていく。

前を横切るときは軽く頭を下げながら、

そのまま出口へ向かう。

強い。

僕の頭の中にいる映画評論家なんて存在しないかのように歩いていく。

「あ、この人余韻を大切にできない人なんや」

そんな架空の評価など知ったことではない。

映画が終わった。

だから帰る。

ただそれだけだ。

なんて強い人なんだ。

すると、

ガタッ。

別の人が立った。

お。

二人目。

さらに、

ガタッ。

三人目。

おい。

お前らも帰りたかったんやないか。

急に帰り始めたぞ。

一人目が立つまで微動だにしなかったのに。

一人が出口へ向かった途端、次々と立ち始める。

待ってくれ。

二人目。

お前は勇者ではない。

一人目が道を作ったあとに立っただけだ。

三人目。

お前もだ。

本物の勇者は最初の一人だけである。

最初の一人には、

「誰も立っていない状況で立つ」

という仕事がある。

二人目からは、

「あ、帰っていいんや」

が使える。

全然違う。

僕は映画館の暗闇で、勝手に勇者認定制度を作っていた。

なぜ最初の一人になれないのか

でも、これって映画館だけの話でもない気がする。

誰もやっていないことを最初にやるのは、妙に勇気がいる。

別に禁止されていない。

怒られるわけでもない。

それでも、

「自分だけ違う行動をする」

となった瞬間、急に周りが気になる。

エレベーターでもそうだ。

みんな同じ方向を向いていると、なんとなく自分も同じ方向を向く。

会議で誰も質問しないと、質問しにくい。

拍手も最初の一人が始めると、みんな続く。

誰かが列を作っていると、何の列か分からなくても少し気になる。

人は思っている以上に、

「他の人はどうしているか」

を判断材料にしている。

映画館でも同じなのかもしれない。

誰も立たない。

だから僕も立たない。

一人立った。

「あ、帰っていいんだ」

そう思う。

冷静に考えればおかしい。

最初から帰っていい。

一人目の勇者に許可をもらう必要なんてない。

それでも、最初の一人が現れた瞬間に少し安心する。

僕が怖いのは、

帰ることではなく、「最初に帰る人」になることなのかもしれない。

そして一人目が立った途端、

僕の中に存在していた謎のルールが消える。

誰が作ったルールなのか。

僕だ。

誰が解除したのか。

知らないおっちゃんだ。

なんなんだ。

「映画が分かっている」とは何なのか

僕が帰れない理由には、もう一つある。

途中で立つと、

「映画が分かっていない人」

に見えそうな気がするのだ。

これも完全に僕の想像である。

そもそも、

映画が分かるとは何だ。

最後までエンドロールを見たら分かっているのか。

年間100本観たら分かっているのか。

監督の過去作品を全部観ていたら分かっているのか。

パンフレットを買ったら分かっているのか。

感想を上手に言えたら分かっているのか。

そんな基準はない。

映画なんて、自分なりに楽しめばいい。

「面白かった」

それだけでもいい。

「よく分からなかった」

でもいい。

途中で泣いてもいいし、全然泣かなくてもいい。

みんなが絶賛している映画を「普通だった」と思ってもいい。

そして、

エンドロールの途中で帰ってもいい。

それで映画を雑に扱ったことにはならない。

頭では分かっている。

なのに僕は、

まだ座っている。

エンドロール後の映像という罠

さらに僕を座席へ縛りつけるものがある。

エンドロールのあと、何かあるかもしれない。

これだ。

最近は、エンドロール中や終了後に追加の映像が入る作品もある。

これを一度経験すると厄介だ。

帰ろうとした瞬間、

「待てよ」

となる。

もしかして最後に何かあるんじゃないか。

重要な伏線が回収されるんじゃないか。

続編につながる映像があるんじゃないか。

せっかく2時間観たのに、最後の30秒だけ見逃したら悔しい。

結果、

座る。

僕はもう余韻を楽しんでいるのか、追加映像を警戒しているのか、周囲の目を気にしているのか、自分でも分からない。

スクリーンを見つめている。

外から見れば、

完全なる映画通である。

中身は、

「なんかある? まだ? 帰っていい?」

である。

見る人も、帰る人も、それでいい

結局のところ、エンドロールを見るかどうかなんて好きにすればいいと思う。

見たい人は見る。

帰りたい人は帰る。

余韻を楽しみたい人は座っていればいい。

スタッフの名前を見たい人もいる。

音楽を最後まで聴きたい人もいる。

追加映像を待ちたい人もいる。

混雑する前に出たい人もいる。

トイレに行きたい人もいる。

終電が迫っている人だっている。

それぞれ事情がある。

だから、

エンドロールを最後まで見る=映画への敬意がある

と単純に決める必要もないし、

途中で帰る=映画を分かっていない

なんてこともない。

大切なのは、帰るなら周囲の鑑賞をできるだけ邪魔しないことくらいだろう。

静かに荷物を持って、必要なら軽く声をかけて出る。

それでいい。

僕も次からそうしよう。

帰りたいなら帰ろう。

もう周囲の余韻顔に惑わされない。

誰も僕のことなんて見ていない。

僕が立ったところで、

「あ、この人、映画分かってない」

なんて思わない。

仮に思われたとしても、

知らん。

僕は僕のタイミングで帰る。

そう決めた。

そんなことを考えていたら、最後の一人だった

よし。

帰ろう。

僕は立ち上がろうとした。

その前に、もう一度だけ周囲を見る。

……。

あれ。

人がいない。

さっきまで前にいた人たちはもういない。

後ろにもいない。

隣を見る。

あれだけ僕の退路を塞いでいた余韻顔もいない。

いつの間に。

スクリーンを見る。

エンドロールも、ほとんど終わっている。

僕が、

「おい、全員通ぶるな」

「お前、その顔ほんまか?」

「一人目は勇者や」

「二人目からは勇者ちゃうぞ」

「そもそも映画が分かるとは何なのか」

などと考えている間に、

全員帰っていた。

最後まで残ったのは、

僕だった。

……。

なんなんだ。

僕はエンドロールを最後まで見たい人ではなかったはずだ。

むしろ最初から帰りたかった。

なのに結果だけ見れば、

誰よりも最後まで映画を味わった人みたいになっている。

照明が明るくなる。

スタッフさんが出口付近で待っている。

申し訳ない。

僕はゆっくり立ち上がった。

荷物を持つ。

座席を離れる。

誰もいない映画館を出口へ向かって歩く。

そして僕は、

映画について何か深いことを理解した人のように、

小さく、

うん。

と頷いた。

そのままゲートを潜った。

たぶん今日、

この映画館で一番通ぶっていたのは、

僕だ。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次