僕には、不思議な癖がある。
ペットボトルの飲み物を、ちょっとだけ残してしまうのだ。
例えば、コンビニでジュースを買う。
喉が渇いているので、飲む。
飲む。
そして、飲む。
その日は、それで終わりである。
ところが、翌日。
ふと、昨日のペットボトルに目をやる。
……。
ちょっとだけ残っている。
本当に、ちょっとだけだ。
あと一口飲めば、空になる程度の量である。
何なのだ、これは。
なぜ、あと一口を飲み干さなかったのだろう。
別に、お腹がいっぱいだったわけでもない。
飲み物がおいしくなかったわけでもない。
むしろ、普通においしく飲んでいたはずだ。
それなのに、最後の一口だけが残っている。
しかも、ジュースだけではない。
水でも同じことが起こる。
どうやら僕は、飲み物の種類に関係なく、最後の一口を残してしまうらしい。
そして、さらに恐ろしいことに、これは一度や二度の話ではない。
ある日、ペットボトルのゴミ袋を見てみた。
すると、どうだろう。
ちょっとだけ飲み物が残ったペットボトルが、たくさんあるではないか。
びっくりだ。
一本なら偶然かもしれない。
二本なら、うっかりかもしれない。
しかし、何本もある。
しかも、どれも同じように、ほんの少しだけ残っている。
これはもう、偶然ではない。
僕は、組織的に飲み物を残している。
一体、何のために。
誰のために。
明日の僕か。
いや、明日の僕だって、こんな一口はいらない。
それとも、霊か。
霊のために残しているのか。
何とも不思議な話である。
今回は、飲み物をちょっとだけ残す人の心理について、自分自身の奇妙な癖を振り返りながら考えてみたい。
なぜ、あと一口を飲み干さないのか
まず、僕が不思議に思っているのは、残している量である。
半分なら分かる。
まだ飲みきれなかったのだろう。
三分の一でも分かる。
喉の渇きが満たされたのかもしれない。
しかし、僕の場合は違う。
本当に、あと一口なのだ。
ペットボトルを持ち上げる。
口をつける。
少し傾ける。
それだけで終わる。
たった、それだけの作業を、なぜしないのだろう。
別に、最後の一口を飲むのが嫌いなわけではない。
何か特別な理由があるわけでもない。
ただ、気がつけば残っている。
これが不思議なのだ。
しかも、残そうと思って残しているわけではない。
「よし、今日はこれくらい残しておこう」
そんなことを考えた記憶はない。
そもそも、飲み物を飲んでいるときに、残量をそこまで意識していない。
喉が渇いたから飲む。
飲みたいから飲む。
それだけである。
そして、いつの間にか飲むのをやめている。
翌日になって、初めて気づく。
「あれ? また残っている」
何ということだ。
僕は、昨日の僕が何を考えていたのか、まったく分からない。
いや、そもそも何も考えていなかった可能性が高い。
それなのに、結果だけは毎回同じなのである。
これは、なかなか興味深い現象ではないだろうか。
調べてみると、霊のために残しているという説が出てきた
なぜ、飲み物をちょっとだけ残してしまうのか。
不思議に思ったので、調べてみた。
すると、思いがけない話が出てきた。
霊のために残している。
……。
は?
霊?
僕が?
どうやら、飲み物を少しだけ残す行動について、霊に分け与えているのではないか、というスピリチュアルな解釈がネット上で語られているらしい。
本人は無意識のつもりでも、霊のために飲み物を残しているというのだ。
何ということだ。
僕は知らないうちに、霊へ飲み物を提供していたのか。
しかも、一度や二度ではない。
ゴミ袋には、少しずつ飲み物が残ったペットボトルがたくさんある。
一体、何人いるのだ。
いや、何人分のお供えなのだ。
もちろん、これは科学的に確認された話ではない。
ネット上で語られている俗説の一つである。
それは分かっている。
分かっているのだが、少し考えてみたい。
僕がジュースを買う。
おいしく飲む。
最後の一口だけ残す。
すると、どこからともなく霊がやってきて、その一口をいただく。
そういう仕組みなのだろうか。
しかし、ここで疑問が生まれる。
なぜ、最後の一口なのだ。
最初の一口では駄目なのか。
半分では駄目なのか。
僕がほとんど飲んだあとで、残りを渡される。
何とも遠慮がちな霊である。
しかも、僕が買う飲み物によって、提供されるものも変わる。
ジュースの日もある。
水の日もある。
霊にも好みがあるだろう。
今日は甘いものが飲みたい。
そんな気分の日だってあるかもしれない。
ところが、僕が水を買ってきたら水である。
選択権はない。
何とも雑なお供えではないか。
そもそも、霊が飲み物を欲しがっているのかどうかも分からない。
ただ、僕が勝手に残しているだけである。
そう考えると、少し申し訳ない気もしてくる。
いや、待て。
なぜ僕は、存在するかどうかも分からない霊の飲み物事情を心配しているのだ。
話がずいぶんおかしな方向へ進んでしまった。
ここは一度、現実的な心理について考えてみよう。
心理① 喉の渇きが満たされた時点で、飲む行為が終わっている
まず考えられるのは、喉の渇きが満たされた時点で、飲むのをやめているということだ。
そもそも、なぜ僕たちは飲み物を買うのだろう。
喉が渇いたから。
何か飲みたいから。
おいしいジュースを楽しみたいから。
理由はいろいろあるだろう。
しかし、少なくとも僕は、ペットボトルを空にするために飲み物を買っているわけではない。
目的は、飲み物を飲むことである。
ここが重要なのかもしれない。
例えば、喉が渇いて水を買ったとする。
最初の一口。
おいしい。
二口目。
まだ飲みたい。
三口目。
だんだん満足してくる。
そして、飲み進めるうちに、喉の渇きがなくなる。
その時点で、僕の中では目的が達成されている。
もう飲みたいと思わない。
だから、飲むのをやめる。
しかし、ペットボトルには少しだけ残っている。
つまり、こういうことではないだろうか。
ペットボトルにはまだ飲み物が残っているのに、僕の中ではもう飲み終わっている。
何とも不思議な矛盾である。
しかし、よく考えてみれば、それほどおかしな話でもない。
飲み物を全部飲み干すことと、喉の渇きを満たすことは、必ずしも同じではないのだ。
僕は、飲み物を残しているつもりではない。
ただ、満足したから飲むのをやめている。
その結果として、最後の一口が残っている。
これなら、ある程度説明がつく。
ただし、疑問も残る。
なぜ、いつも同じような量なのだろう。
半分残ることがあってもいい。
三分の一残ることがあってもいい。
それなのに、なぜか最後の一口なのである。
僕の喉の渇きは、毎回そんなに正確なのだろうか。
ペットボトルの残量を計算して、最後の一口で満足するように調整しているのか。
そんな器用なことができるなら、もっと別のところで能力を発揮したい。
心理② 最後の一口だけ、飲む価値が下がっている
次に考えられるのは、最後の一口になる頃には、飲み物への欲求が弱くなっているということだ。
買ったばかりのジュースはおいしい。
喉が渇いていれば、なおさらである。
最初の一口は格別だ。
しかし、飲み進めるにつれて、満足感は増えていく。
最初ほど強く飲みたいとは思わなくなる。
最後の一口になる頃には、もう十分だと感じているのかもしれない。
経済学には、消費を重ねるにつれて、追加の一単位から得られる満足が小さくなることがある、という考え方がある。
限界効用逓減というものだ。
もちろん、すべての飲み物や状況に当てはまるわけではない。
ただ、最初の一口と最後の一口では、感じる価値が違うことはありそうだ。
僕の場合、最後の一口になる頃には、飲みたいという気持ちがほとんどなくなっているのかもしれない。
だから、無理に飲み干そうとはしない。
しかし、ここでも疑問が生まれる。
それなら、なぜ捨てないのだろう。
もう飲みたくない。
でも、残している。
飲むわけでもない。
捨てるわけでもない。
一体、どうしたいのだ。
最後の一口を前にして、僕は何を迷っているのだろう。
いや、迷ってすらいないのかもしれない。
そもそも、何も考えていないのだから。
心理③ 「あとで飲もう」と思って、そのまま忘れている
もう一つ考えられるのが、判断の先送りである。
ペットボトルに、少しだけ飲み物が残っている。
今は飲みたくない。
しかし、捨てるほどでもない。
それなら、あとで飲めばいい。
そう考えて、いったん置いておく。
ところが、その「あとで」がやってこない。
翌日になって、ようやく気づく。
「あれ? まだ残っている」
これも、十分にありそうな話だ。
人間は、すべての行動について、その場で明確な判断をしているわけではない。
今すぐ決める必要がないことは、後回しにする場合もある。
僕の場合、最後の一口がそれなのかもしれない。
今は飲まない。
でも、捨てる必要もない。
とりあえず置いておこう。
そして、忘れる。
何とも単純な話である。
しかし、ここで少し考えてみたい。
もし、僕が最後の一口を未来の自分に託しているのだとしたら、どうだろう。
今日の僕は、飲み物を少しだけ残す。
「明日の僕よ、あとは頼んだ」
そして、翌日。
未来の僕は、そのペットボトルを発見する。
「何だ、これは」
飲まない。
そのまま捨てる。
……。
何という無責任な男なのだ。
昨日の僕が残したものを、今日の僕が処分している。
しかも、昨日の僕は、そのことを何とも思っていない。
なぜなら、もう忘れているからだ。
こうして考えると、僕の飲み残しは、過去の自分から未来の自分への小さな押しつけなのかもしれない。
もっとも、残っているのは一口だけである。
そこまで大げさに考える必要はないだろう。
心理④ 全部なくなることに、無意識の抵抗がある?
少し変わった可能性についても考えてみたい。
それは、飲み物が完全になくなることに、何らかの抵抗があるというものだ。
例えば、お菓子を最後の一個だけ残す人がいる。
好きなものを、最後まで取っておきたい。
全部なくなってしまうのが、何となく寂しい。
そういう感覚は、理解できなくもない。
もしかすると、飲み物でも同じようなことが起こっているのだろうか。
ペットボトルの中に、少しだけ飲み物が残っている。
まだ、なくなっていない。
その状態に、無意識の安心感を覚えている。
そういう可能性も、考えられなくはない。
ただし、これはあくまで仮説である。
飲み物を少し残す人に共通する心理として、科学的に確立されているわけではない。
それに、僕自身の行動を考えると、この説明は少し違うような気もする。
なぜなら、僕は残したことに気づいていないからだ。
「まだ残っている。よかった」
そんなふうに安心した記憶はない。
むしろ、翌日になって驚いている。
「また残っているではないか」
安心どころか、疑問である。
それでも、無意識の行動というのは、自分でも理由を説明できないことがある。
だから、完全に否定することもできない。
しかし、今のところは、満足した時点で飲むのをやめているという説明のほうが、僕にはしっくりくる。
心理⑤ もはや、ただの癖になっている
最後に考えられるのは、単純に習慣になっているということだ。
これが、案外一番近いのかもしれない。
最初は、たまたま飲み物を残した。
次の日も、少し残した。
その次の日も、同じように残した。
そして、いつの間にか、それが当たり前になった。
本人は、何も意識していない。
しかし、結果だけは繰り返される。
無意識の癖とは、そういうものなのだろう。
例えば、考え事をしているときに髪を触る人がいる。
貧乏ゆすりをする人もいる。
ペンを回す人もいる。
本人は、いちいち理由を考えているわけではない。
気がつけば、やっている。
僕の場合、それが飲み物をちょっとだけ残すという行動なのかもしれない。
ただし、ここで気になることがある。
なぜ、その癖が身についたのだろう。
何かきっかけがあったのか。
子どもの頃からなのか。
それとも、大人になってからなのか。
残念ながら、分からない。
少なくとも、僕は飲み物を残す練習をした覚えはない。
「今日は最後の一口を残せたぞ」
そんな達成感を味わったこともない。
それなのに、いつの間にか習得していた。
何とも役に立たない特技である。
しかも、かなりの確率で成功している。
ペットボトルのゴミ袋が、その証拠だ。
誰にも教わっていない。
努力した覚えもない。
しかし、確実に身についている。
僕は一体、何を極めようとしているのだろう。
ちょい残し症候群という言葉もあるらしい
飲み物や食べ物を少しだけ残す行動について調べていると、「ちょい残し症候群」という言葉を見かけることがある。
何とも分かりやすい名前である。
ただし、これは正式な医学的診断名ではない。
飲み物を少し残したからといって、何かの病気というわけではないのだ。
そもそも、食べ物や飲み物を残す理由は、人によって違う。
お腹がいっぱいになったから。
もう飲みたくないから。
あとで飲もうと思ったから。
単純に忘れたから。
理由はいろいろ考えられる。
それなのに、同じような行動をしているというだけで、全員の心理が同じだと考えるのは無理がある。
僕の場合もそうだ。
残しているのは事実である。
しかし、その理由は自分でも分からない。
だからこそ、こうして考えている。
それにしても、何とも不思議なものだ。
人間というのは、自分の行動をすべて理解しているわけではない。
自分のことなのに、分からない。
昨日の自分が何を考えていたのかさえ、分からない。
そして、今日もまた同じことを繰り返す。
これが人間なのだろうか。
いや、少し話が大きくなりすぎた。
ただ、飲み物をちょっとだけ残しているだけである。
そもそも、誰にも迷惑をかけていないではないか
さて、ここまで飲み物をちょっとだけ残す心理について、いろいろ考えてきた。
しかし、ここで一つ思うことがある。
そもそも、これは直さなければならない癖なのだろうか。
僕が買った飲み物だ。
僕が飲んでいる。
そして、僕がちょっとだけ残している。
別に、誰かの飲み物を勝手に残しているわけではない。
誰かに最後の一口を押しつけているわけでもない。
自分で買って、自分で飲んで、自分で残している。
それだけである。
多少、もったいない。
確かに、もったいない。
せっかく買ったのだから、全部飲み干したほうがいいだろう。
しかし、残っているのは本当に少しだけなのだ。
何も、そこまで深刻に考える必要はない。
世の中には、もっと直したほうがいい癖がたくさんあるはずだ。
最後の一口を残すくらい、かわいいものではないか。
もちろん、捨てるときは別である。
中身が残ったペットボトルを、そのまま資源ごみに出すのはよくない。
回収するときに漏れるかもしれないし、リサイクルの妨げにもなる。
そこは、きちんと中身を空にして、自治体のルールに従って捨てるべきだろう。
しかし、飲み物を少しだけ残してしまうという癖そのものは、そこまで大きな問題ではないと思う。
誰にも迷惑をかけていない。
多少もったいないだけだ。
あまり気にするな。
……。
誰に言っているのだ。
そもそも、気になって調べ始めたのは僕ではないか。
自分で疑問を持ち、自分で調べ、自分で考察している。
そして、最後には自分に向かって「あまり気にするな」と言っている。
何とも忙しい男である。
まあ、いい。
少なくとも、今すぐ必死になって直さなければならない癖ではなさそうだ。
そう考えると、少し気が楽になる。
もしかすると、一人暮らしの僕を心配して、霊が遊びに来ているのかもしれない
さて、ここまで現実的な心理について考えてきた。
喉の渇きが満たされたからなのか。
最後の一口を飲む必要を感じないからなのか。
あとで飲もうと思って忘れているのか。
それとも、単なる習慣なのか。
どれも、それなりに納得できる。
しかし、結局のところ、はっきりした理由は分からなかった。
そこで、もう一度、最初の説に戻ってみたい。
霊のために残しているという説だ。
もちろん、科学的な根拠はない。
そんなことは分かっている。
しかし、少し想像してみよう。
僕は一人暮らしをしている。
家に帰っても、基本的には一人である。
ご飯を食べるのも一人。
本を読むのも一人。
眠るのも一人。
別に、それを寂しいと思っているわけではない。
むしろ、一人の時間は好きだ。
しかし、もしかすると、霊の方が心配してくれているのかもしれない。
「あいつ、いつも一人だな」
「寂しくないのだろうか」
「ちょっと遊びに行ってやるか」
そうして、僕の家にやってきているのではないだろうか。
何とも優しい霊ではないか。
しかも、手ぶらで来ている。
僕の家には、ちょっとだけ残った飲み物があるからだ。
ジュースもある。
水もある。
日によって種類は違う。
霊にとっては、ちょっとした飲み物コーナーなのかもしれない。
ただし、量は少ない。
本当に、少ない。
あと一口しかない。
しかも、僕はその存在に気づいていない。
何とも控えめな交流である。
いや、そもそも霊が来ているという証拠は何もない。
すべて僕の想像である。
それでも、もし本当に遊びに来てくれているのだとしたら、少し面白いではないか。
一人暮らしの僕を心配して、わざわざ訪ねてきてくれる。
そして、最後の一口をいただいて帰る。
何とも律儀な霊である。
ただ、一つだけお願いがある。
もし本当に来ているのなら、姿は見せないでほしい。
気配も出さないでほしい。
物音も立てないでほしい。
僕はホラー小説が好きだが、実際に幽霊に会いたいわけではない。
そこは、きちんと理解していただきたい。
飲み物なら、少しくらい分けても構わない。
しかし、突然目の前に現れるのは困る。
何とも勝手な話である。
今日も霊にお供えだ
結局のところ、なぜ僕が飲み物をちょっとだけ残してしまうのか、明確な答えは出なかった。
喉の渇きが満たされたからなのか。
最後の一口を飲み干す必要を感じないからなのか。
無意識の習慣なのか。
それとも、別の理由があるのだろうか。
いろいろ考えてみたが、どれも決定的な説明にはならなかった。
しかし、別に困っているわけではない。
誰かに迷惑をかけているわけでもない。
多少もったいないだけである。
それなら、無理に直そうとしなくてもいいのかもしれない。
もちろん、飲み残しを捨てるときには、中身を空にする。
それさえ気をつけていれば、そこまで大きな問題ではないだろう。
そして、もう一つ。
霊のために残しているという説もあった。
もしかすると、一人暮らしの僕が寂しくないように、霊が遊びに来てくれているのかもしれない。
そして、僕はそんな霊のために、飲み物を少しだけ残している。
何とも心温まる話ではないか。
科学的な根拠など、もちろんない。
しかし、世の中には、理由の分からないことだってある。
すべてを無理に説明する必要もないだろう。
いろいろ考えてみたが、そういうことにしておこう。
僕はペットボトルを手に取り、ジュースを飲む。
そして、最後の一口を残す。
今日も霊にお供えだ。
