職場で嫌いな人がいる。
そう。
なんとなく嫌いだ。
こう書くと、その人がものすごく嫌な人みたいに聞こえる。
でも、そうではない。
嫌味を言われたわけでもない。仕事を押しつけられたわけでもない。僕だけ露骨に無視されるわけでもない。僕のプリンを勝手に食べたわけでもない。
なんだったら、
いい人だったりする。
挨拶もする。仕事もちゃんとする。困っている人がいたら助ける。僕にも普通に接してくる。
客観的にその人の人物評を書けと言われたら、僕はたぶん「いい人」と書く。
でも嫌いだ。
なんか嫌い。
困ったものである。
「その人の何が嫌いなの?」
そう聞かれたことがある。
僕は考えた。
……。
分からない。
喋り方かな。
いや、それだけではない。
性格かな。
いや、性格が悪いわけでもない。
仕事の仕方かな。
別にちゃんと働いている。
顔かな。
それを言い出したら、僕がただの最低な奴になる。
違う。
何か一つ、「これが嫌いです」と提出できるものがない。
それなのに、その人が職場にいると、
「あ、今日おるんや」
と思う。
休みだと、
「あ、今日おらんのや」
と思う。
そして、ほんの少しだけ嬉しい。
何なんだ、この感情は。
理由が分からないのに、人を嫌いになることなんてあるのだろうか。
それとも、本当は理由があるのに、僕がまだ言葉にできていないだけなのだろうか。
気になったので、「なんとなく嫌い」の正体について考えてみることにした。
「嫌い」には、分かりやすい理由があると思っていた
嫌いな食べ物なら説明しやすい。
パクチーが嫌い。
匂いが苦手だから。
納豆が嫌い。
ネバネバが嫌だから。
嫌いな仕事にも理由がある。
しんどい。
給料が安い。
人間関係が面倒くさい。
こういう「嫌い」は分かりやすい。
原因と結果が一本の線でつながっている。
だから人間についても、僕は同じように考えていた。
嫌いな人には、嫌いになるだけの理由がある。
意地悪だから。
自慢ばかりするから。
人によって態度を変えるから。
悪口ばかり言うから。
距離感がおかしいから。
こういう人なら、
「なんで嫌いなん?」
と聞かれても答えられる。
「こういうところが嫌いやねん」
それで終わる。
ところが、「なんとなく嫌い」は終わらない。
質問されるたびに、自分でも理由を探す。
「声?」
「いや、声だけではないな」
「話し方?」
「それも少しある気がするけど……」
「じゃあ何?」
知らん。
自分の感情なのに、自分で説明できない。
これが不思議だった。
大きな理由がないから、言語化できないのかもしれない
考えているうちに、一つ思った。
もしかすると「なんとなく嫌い」には、分かりやすい大きな理由がないのではないか。
その代わり、
ものすごく小さな違和感が大量にある。
たとえば、話すテンポが少し合わない。
笑うタイミングが少し気になる。
距離がほんの少し近い。
こちらが話しているときの相づちが、なぜか引っかかる。
目線がちょっと苦手。
言葉の選び方が微妙に合わない。
人に何かを頼むときの感じが少し気になる。
声の大きさがなんとなく疲れる。
でも、一個ずつ取り出したら、どれも大したことではない。
「笑い方がちょっと苦手だから嫌いです」
と言ったら、
いや、それだけで嫌うなよ。
となる。
僕もそう思う。
だから一つ一つは「嫌いな理由」として採用されない。
ただ、仮にそれぞれがマイナス0.1だとする。
マイナス0.1。
マイナス0.1。
マイナス0.1。
マイナス0.1。
それが50個集まったら、
マイナス5になる。
僕の意識は一個一個のマイナス0.1を覚えていない。
でも脳内では全部足されている。
そして最終結果だけが僕のところへ送られてくる。
判定:なんか嫌い。
いや。
途中の計算式も見せてくれ。
僕は理由を聞いている。
「総合的にマイナスでした」だけでは説明になっていない。
でも「なんとなく」という言葉は、案外こういうものなのかもしれない。
理由がないのではなく、
理由が小さすぎる。多すぎる。複雑すぎる。
だから言葉にしようとすると、一気に難しくなる。
人間は、思っている以上に一瞬で他人を見ているらしい
ここで「直感」について調べてみた。
すると、人間はかなり短い時間の観察からでも他人についてさまざまな判断をしているらしい。
心理学には「thin slices(薄いスライス)」と呼ばれる研究の流れがある。人の行動のごく短い断片を見ただけで、観察者がどの程度その人物について判断できるのかを調べるものだ。
たとえば2007年の研究では、初対面同士のやり取りを5秒、20秒、45秒、60秒、300秒などの短い時間で観察させたところ、外向性や誠実性、ネガティブな感情など、一部の特徴については非常に短い観察でも一定の正確さが見られた。ただし、何でも一瞬で正しく見抜けるわけではなく、何を判断するか、どれくらい観察するかによって精度は変わっている。
さらに有名な研究では、教師の授業中の非言語行動を数秒から数十秒だけ見た第三者による評価が、学期末の学生による教師評価などと関連した。
これは面白い。
僕らは人に会ったとき、
「まず声を分析します」
「次に目線を分析します」
「続いて身振りを分析します」
「以上を踏まえ、総合評価を算出します」
なんてことはしていない。
そんな面接官みたいなことを毎回していたら疲れて仕方ない。
実際には、会って、喋って、数分すると、
「なんか話しやすいな」
とか、
「なんか苦手やな」
という感覚が先に出てくる。
僕らが意識していないところで、表情、声、姿勢、間、視線、身振りなど、いろんな情報を拾っているのかもしれない。
だから「なんとなく嫌い」は、
何も見ていないから生まれる感情ではなく、むしろいろいろ見た結果なのではないか。
そんな気がしてきた。
「直感」は、理由より先に届く答えなのか
ここまで調べると、僕の中で直感のイメージが少し変わった。
直感というと、
「なんとなく」
「根拠がない」
「適当」
みたいなイメージがある。
でも、必ずしも何の情報もないわけではない。
自分が言葉にしていないだけで、目の前には情報がある。
たとえば誰かと話しているとき、
一瞬だけ表情が変わった。
人によって声色が変わった。
誰かが失敗したときだけ少し嬉しそうに見えた。
店員さんへの態度が妙に引っかかった。
自分の話になると急に大きな声になった。
こちらが話している途中で毎回かぶせてきた。
一つ一つなら、その場で問題にするほどではない。
僕自身、いちいち覚えていないかもしれない。
でも脳は、
「なんか変やぞ」
と処理している。
そして僕の意識に届くころには、
「なんか嫌い」
という短い文章に圧縮されている。
だとしたら、直感とは「理由のない答え」ではなく、
理由を説明できるより先に出てきた答え
なのかもしれない。
脳内会議ではすでに審議が終わっている。
僕だけ議事録をもらっていない。
「結果だけお伝えします。嫌いです」
なんで?
「詳細については回答を差し控えます」
僕の脳、記者会見が下手すぎる。
過去に嫌いだった誰かが、こっそり混ざっている可能性
さらに面白い研究があった。
2018年に発表された研究では、参加者がまず「信頼できる人」「信頼できない人」とのやり取りを学習した。その後、別の知らない人物を選ぶ場面になると、以前の「信頼できる人」に顔が似た人物を選びやすく、逆に「信頼できない人」に似た人物を避ける傾向が示された。
研究では、知っている人物との知覚的な類似性が、未知の相手への信頼判断に一般化する仕組みが検討されている。
これを読んで、
怖っ。
と思った。
目の前の人、何もしてないやん。
でも考えてみれば、僕らは毎回ゼロから人間関係を始めているわけではない。
これまで何十年も生きてきた。
学校にも行った。
仕事もした。
いろんな人に会った。
好きな人もいた。
嫌いな人もいた。
怖い人もいた。
面倒くさい人もいた。
その経験が全部どこかに残っている。
だから新しく会った人が、昔嫌だった誰かに少し似ていたら、
「この人、あの人に似ている」
と明確に思わなくても、なんとなく警戒することはあり得るのだろう。
もちろん、この研究だけから「昔嫌いだった人と話し方が似ているから嫌いになる」とまで断定はできない。
ただ、
今の相手への評価に、過去の経験が混ざることがある。
これは「なんとなく」の正体を考えるうえでかなり面白い。
目の前の人だけを見ているつもりなのに、
その後ろに昔の誰かが立っている。
いや。
勝手に参加するな。
目の前の人は初対面や。
いい人なのに嫌いなのは、おかしくないのかもしれない
そして僕が一番引っかかっていたのがこれだ。
なんだったら、いい人なのだ。
ここが自分でも気持ち悪かった。
悪い人なら嫌いでいい。
でも、いい人を嫌うと、自分が悪い人みたいな気がする。
「優しいです」
「真面目です」
「仕事もちゃんとします」
「困った人を助けます」
「でも僕は嫌いです」
お前が一番嫌な奴やないか。
そうなりそうである。
でも調べてみると、「いい性格」と「その人を好きになること」は完全に同じではないようだ。
844人を対象にした研究では、望ましい・望ましくない性格特性についての評価を考慮したうえでも、性格パターンが似ている人同士のほうが互いを好む傾向が見られた。つまり、「一般的に好ましい性格か」だけではなく、相手との組み合わせも好意に関係していた。
これ、すごく納得した。
いい人と、好きな人は違う。
逆もある。
めちゃくちゃ真面目ではない。
ちょっと適当。
口も悪い。
たまに腹が立つ。
でも、なんか好き。
そんな人もいる。
人間関係って、通知表みたいに、
優しさ 5
誠実さ 5
仕事 5
礼儀 5
合計20点。
はい、好きです。
とはならない。
人間はスペック表ではない。
どれだけ性能のいい人でも、自分とは合わないことがある。
反対に、欠点だらけでも妙に居心地のいい人がいる。
だから、
「いい人なのに嫌い」
は矛盾しているようで、別に矛盾していないのかもしれない。
その人がいい人であることと、
僕がその人と一緒にいて心地いいかどうかは、
別の話なのだ。
これは少し安心した。
僕だけが異常に性格悪いわけではなさそうだ。
たぶん。
後になって「やっぱり嫌いやった」となることがある
そして僕には、もう一つ気になる経験がある。
最初に、
「なんかこの人嫌いやな」
と思う。
でも理由は分からない。
しばらく一緒に過ごす。
数か月後。
その人が何かをする。
そこで初めて、
「ああ、これや」
となることがある。
人によって露骨に態度を変える。
自分が得する場面だけ前に出る。
誰かがいないところで悪口を言う。
責任が発生した瞬間だけ逃げる。
もちろん内容は人によって違う。
でも、その瞬間、
「やっぱりな」
と思う。
最初の違和感と、後から見えた嫌な部分がつながる。
答え合わせである。
これがあるから、僕は「直感って意外と正しいんじゃないか」と思ってしまう。
最初は説明できなかった。
でも脳は、その人の小さな言動から何かを拾っていた。
それが数か月後、分かりやすい形で現れた。
「ほら。最初から分かってた」
と言いたくなる。
僕の脳、すごいやん。
名探偵やん。
ただし。
ここで話を終えると、かなり危ない。
本当に直感が当たったのか。それとも僕が答えを作ったのか
「最初から嫌な予感がしていた。そして後から本当に嫌な人だと分かった」
この話は気持ちいい。
自分の人を見る目が証明された感じがする。
でも、別の可能性もある。
最初に嫌いだと思ったから、その人の嫌な部分ばかり探していたのではないか。
人間は、自分が持っている仮説を確かめるとき、それを支持する情報を探しやすくなることがある。
古典的な社会心理学の研究では、「相手は外向的だ」「相手は内向的だ」といった仮説を与えられた参加者が、その仮説を確認しやすい質問を選ぶ傾向が示されている。さらに、こちらの期待に基づく接し方が相手の行動にも影響し、最初の期待を確認するような相互作用が生まれる場合も研究されている。
これを職場に置き換えると、ちょっと怖い。
最初に、
「この人なんか嫌いや」
と思う。
すると、その人が挨拶しなかった日が目につく。
ほら、やっぱり。
でも好きな人が挨拶しなかったら、
「気づかなかったんかな」
で終わる。
嫌いな人が仕事でミスする。
ほら、こういうとこやねん。
好きな人が同じミスをする。
「まあ誰でもミスするわ」
で終わる。
嫌いな人がちょっと自慢する。
出た出た。
好きな人が自慢する。
「嬉しかったんやろな」
で終わる。
同じ行動なのに、判決が違う。
裁判官、僕。
検察官、僕。
証人、僕。
被告だけ相手。
そら有罪になる。
だから数か月後の、
「やっぱり嫌な奴やった!」
という答え合わせも、本当に答え合わせなのか分からない。
僕が最初から答えを決めて、そこに合う証拠を集めていただけかもしれない。
しかも、僕の態度が相手を嫌な奴にしている可能性まである
さらに嫌なのがここだ。
先ほど触れた研究では、相手に対する期待がこちらの行動を変え、その行動が相手の反応を変える「行動的確証」のような現象も示されている。
たとえば相手を敵対的だと予想して接した結果、相手からも敵対的な反応を引き出すことがある。
つまり、
僕「こいつなんか嫌いやな」
↓
僕、ちょっと素っ気なくなる。
↓
相手「なんやこいつ」
↓
相手も素っ気なくなる。
↓
僕「ほら!やっぱり嫌な奴や!」
待て待て待て。
最初にちょっと嫌な感じ出したん、僕ちゃうん。
怖い。
「直感が当たった」と喜んでいたら、自分で正解を作っていた可能性がある。
人間関係の永久機関である。
だから「なんとなく嫌い」を完全に信じてしまうのも危険なのだと思う。
直感は何かを拾っているかもしれない。
でも直感が出した答えを信じすぎると、その後の見方まで変わる。
ここが難しい。
じゃあ直感は信じるべきなのか
結局ここに戻ってくる。
直感は正しいのか。
僕なりの答えは、
「正しいこともある。でも、正しいとは限らない」
という、ものすごくつまらないものになった。
でもたぶん、これが一番近い。
短い観察からでも、人は一部の特徴について一定の情報を読み取れることが研究されている。だから第一印象や直感を全部「根拠のない妄想」と捨てる必要もない。
一方で、第一印象は万能ではない。同じ研究でも、何を判断するかによって精度は違うし、情報が増えることで判断が改善する場合もある。
そして一度「嫌い」と思えば、その後の情報の探し方や接し方まで影響を受ける可能性がある。
だから直感は、
判決ではなく、通知くらいにしておくのがいいのかもしれない。
スマホに、
「この人物に違和感があります」
と通知が来る。
了解。
通知は見た。
でも、その場でブロックはしない。
「何に違和感を持ったんだろう」
と少し観察してみる。
それくらいがちょうどいい。
僕の脳が何か重要なものを拾っている可能性もある。
単なる勘違いの可能性もある。
通知は無視しない。
でも通知だけで有罪判決も出さない。
「嫌い」と「悪い人」は別にしないといけない
ここまで考えて、一番大事なのはこれだと思った。
僕が嫌いだからといって、その人が悪い人とは限らない。
当たり前のことなのに、好き嫌いが入ると混ざりやすい。
嫌いな人について、
「あの人、性格悪いよな」
と言いたくなる。
でも本当は、
「あの人の性格が悪い」
ではなく、
「僕があの人を嫌い」
なだけかもしれない。
この二つは全然違う。
特に今回みたいに理由すら説明できないなら、なおさらだ。
僕が、
「なんとなく嫌いです」
と感じること自体は仕方ない。
感情にまで、
「その人いい人なんだから好きになりなさい」
と言われても無理だ。
好きになれと言われて好きになれるなら、人間関係で誰も苦労しない。
でも、
「なんとなく嫌い」
から、
「あいつは悪い奴だ」
へ勝手に進むのは違う。
嫌いでもいい。
距離を取りたければ取ればいい。
ただ、相手の人格まで僕の感情で決める必要はない。
あなたはたぶん、いい人です。
でも僕は、なんか嫌いです。
ものすごく失礼な文章だが、たぶんこれが一番正確なのである。
逆に「なんとなく好き」な人もいる
ここで、ふと思った。
嫌いばかり考えていたけれど、
なんとなく好きな人もいる。
これも理由を聞かれると難しい。
何か特別に優しくされたわけではない。
ものすごく面白いわけでもない。
趣味が全部同じでもない。
でも一緒にいて楽。
沈黙が気にならない。
話していて疲れない。
なんか好き。
これも同じなのかもしれない。
プラス0.1が50個ある。
相づちがちょうどいい。
距離感がちょうどいい。
笑うところが似ている。
沈黙の長さがちょうどいい。
こちらが無理に喋らなくてもいい。
何かを説明しなくても通じる。
一個一個は小さい。
「この人を好きな理由は、相づちが0.3秒くらいちょうどいいからです」
なんて言わない。
でも全部合わせると、
なんか好き。
先ほどの844人を対象にした研究でも、単に「望ましい性格だから好かれる」だけではなく、性格パターンの似た者同士ほど好意を持つ傾向が見られている。効果を何にでも当てはめるべきではないが、「いい人かどうか」以外に相手との組み合わせが関係することを考える材料にはなる。
そう考えると、
「なんとなく嫌い」だけを異常な感情として扱う必要もない。
人間はそもそも、
なんとなく好きになって、なんとなく嫌いになる生き物なのかもしれない。
あとから理由をつけているだけで。
言葉は、感情より遅いのかもしれない
今回ずっと気になっていたのは、
「なぜ言語化できないのか」
だった。
考えてみれば、感情が生まれるたびに、僕らは理由を文章で受け取っているわけではない。
怖い。
落ち着く。
気持ち悪い。
懐かしい。
安心する。
好き。
嫌い。
まず感覚が来る。
そのあとで、
「なんでだろう」
と考える。
だから言語化できないこと自体は、そんなに不思議ではないのかもしれない。
むしろ、
感情のほうが言葉より速い。
僕の中ではすでに何かが起きている。
でも言葉がまだ追いついていない。
数か月後に相手のある行動を見て、
「ああ、これが嫌だったのか」
となることもある。
それは本当に最初から見抜いていたのかもしれない。
後から都合よく理由を作っただけかもしれない。
たぶん、本人にも完全には分からない。
でも「なんとなく」という言葉は、何もない場所に置かれているわけではなさそうだ。
そこには、まだ言葉になっていない何かがある。
「なんとなく」は、空白ではない。
そう思うと、ちょっと面白い。
僕はこれからも、なんとなく嫌うと思う
結局、職場のその人を好きになったのか。
なっていない。
ここまで調べたのに。
研究まで読んだのに。
「人間の第一印象とは……」
「刺激般化とは……」
「性格の類似性とは……」
「行動的確証とは……」
いろいろ考えた。
そして職場へ行く。
その人がいる。
僕の脳が言う。
「やっぱりなんか嫌い。」
強い。
心理学でも倒せなかった。
ただ、以前とは少しだけ違う。
「嫌いだから、あいつは嫌な奴だ」
とは思わなくなった。
僕の脳が何か小さな違和感を拾っているのかもしれない。
過去に苦手だった誰かと似ているのかもしれない。
単純に性格やテンポが合わないのかもしれない。
僕が最初の印象に引っ張られているだけかもしれない。
あるいは全部が少しずつ混ざっているのかもしれない。
理由は、まだ分からない。
でも、分からないままでもいい気がしてきた。
人を嫌いになるたびに、裁判のような証拠を揃える必要もない。
「なんか合わない」
それだけの人間関係もある。
ただし、その感覚を相手の罪にはしない。
僕が嫌いなのは僕の事情だ。
相手には相手の事情がある。
なんだったら、向こうも僕のことを、
「なんか嫌いやわ」
と思っているかもしれない。
十分あり得る。
その人に、
「僕の何が嫌いなんですか?」
と聞いてみたい気もする。
もしかすると僕がずっと探していた「なんとなく嫌い」の正体について、ものすごく重要なヒントが得られるかもしれない。
「話し方です」
「距離感です」
「笑い方です」
「なんかムカつきます」
研究が進みそうだ。
でも、
やっぱり聞きたくない。
知らない方が幸せなこともある。
今日も職場へ行く。
その人がいる。
「あ、今日おるんや」
と思う。
別の日。
その人が休みだった。
「あ、今日おらんのや」
と思う。
理由は分からない。
直感が正しいのかも分からない。
相手はたぶん、いい人だ。
それでも僕は、
ちょっと嬉しい。
