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歩きスマホが迷惑すぎる。危険なのに、なぜ人はやめないのか。

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歩きスマホが迷惑すぎる。

前を見ろ。

本当に、それだけだ。

駅を歩いている。

前から人が来る。

スマホを見ている。

前を見ていない。

こっちへ向かってくる。

避ける気配もない。

僕はそのまま歩く。

近づく。

まだ見ている。

さらに近づく。

まだ見ている。

おい。

そろそろ前を見ろ。

ようやく相手が顔を上げる。

僕を見る。

相手が避ける。

そうだ。

最初からお前が避けろ。

僕は前を見て歩いている。

なのに、なぜ前を見ていない人間のために、僕が進路を変更しなければならないのだ。

昔からこれがよくわからない。

歩きスマホをしている人が前から来ると、たいてい周りの人が避ける。

右へ。

左へ。

少し速度を落とす。

ぶつからないように、前を見ている側が調整する。

そして歩きスマホをしている本人は、何事もなかったように通り過ぎていく。

おかしくないか。

お前が前を見ていないんだぞ。

なぜ僕らがお前の分まで前を見ているんだ。

目次

そんなに何を見ているのか

僕にはもう一つ悪い癖がある。

歩きスマホをしている人とすれ違うとき、たまに画面を見てしまう。

何をそんなに必死で見ているのか気になるからだ。

もしかすると、ものすごく重要な連絡かもしれない。

家族から緊急の連絡が来たのかもしれない。

仕事で今すぐ確認しなければならないことがあるのかもしれない。

道に迷って、地図を確認しているのかもしれない。

それなら、まあ。

いや、止まって見ろとは思う。

それでも気持ちは少しわかる。

だから見る。

動画。

おい。

別の日。

ゲーム。

おい。

しょうもない。

もちろん、動画を見ることがしょうもないと言いたいわけではない。

僕だって動画は見る。

ゲームだって好きな人は好きなだけやればいい。

問題はそこじゃない。

なぜ今なんだ。

なぜ歩きながらなんだ。

その動画は、駅に着いた瞬間に消滅するのか。

そのゲームは、立ち止まったらデータが全部消えるのか。

数十秒後ではダメなのか。

端へ寄って止まるという選択肢は、いつ人類から消えたんだ。

僕はお前がゲームをするために避けているのか。

そう思うと、さらに腹が立つ。

ただ、歩きスマホをしている人の画面をわざわざ確認して「しょうもない」と判定している僕も、なかなかしょうもない。

向こうは動画を見ている。

僕は、向こうが何を見ているのかを見ている。

どちらも大したことをしていない。

ただ一つだけ違う。

僕は前を見ている。

危険なのは本人も知っているはずだ

歩きスマホは危険です。

そんなことは、もう何度聞いたかわからない。

駅でも注意される。

街でも注意喚起を見る。

スマホを見ながら歩けば、人や物にぶつかる可能性がある。

階段なら転ぶかもしれない。

駅のホームなら、もっと危険だ。

おそらく歩きスマホをしている人の多くも、それくらいは知っているだろう。

では、なぜやめないのだろう。

「危険だと知らないから」

だけでは説明できない気がする。

知っている。

でもやる。

僕はここが気になった。

もしかすると本人の中では、「危険だと知っていること」と「自分が危険な目に遭うこと」が、うまくつながっていないのではないか。

今日も歩きスマホをした。

何も起きなかった。

昨日もした。

何も起きなかった。

一昨日もした。

何も起きなかった。

だったら大丈夫。

そう感じても不思議ではない。

でも、本当に何も起きなかったのだろうか。

周りが避けているから何も起きない

ここを調べていて、面白い研究を見つけた。

2023年に発表された日本の実験では、一対一ですれ違う状況をつくり、対向者が普通に歩く場合とスマートフォンを操作しながら歩く場合などで、回避行動がどう変わるかを調べている。

その結果、対向者がスマホを操作している条件では、被験者の回避行動の開始が早くなった。

研究者は、うつむいてスマホを操作し、前方に注意を払っていない相手に対して危険意識が働いた可能性を考えている。

これを読んだとき、僕は思った。

やっぱりそうじゃないか。

歩きスマホをしている人が来る。

前を見ている人が気づく。

「あ、この人、こっち見てない」

危ない。

だから早めに避ける。

歩きスマホをしている人は、そのまま通り過ぎる。

本人からすると、

「今日も歩きスマホしたけど、別に何も起きなかった」

になる。

違う。

何も起きなかったんじゃない。

周りが何も起こらないようにしてくれたんだ。

これはかなり大きな違いだと思う。

もちろん、「周囲が避けてくれる経験によって歩きスマホが習慣として強化される」とまで、この研究が証明しているわけではない。

そこは分けて考えなければならない。

でも少なくとも、前を見ていない歩行者に対して、前を見ている側が早く回避を始めるという現象は確認されている。

つまり僕がずっと感じていた、

「なんで僕が避けなあかんねん」

は、単なる僕の小さな怒りだけでもなかった。

歩きスマホをしている人が放棄した注意を、周囲が補っている場面が実際にある。

そう考えると、僕が歩きスマホに腹を立てる理由も少しわかった。

危ないからだけではない。

不公平なのだ。

前を見ている側の仕事が増える

普通に歩いているとき、僕が気をつけるべきことは僕自身の歩行だ。

前を見る。

人が来たら避ける。

信号を見る。

階段を見る。

障害物を見る。

それでいい。

ところが、前から歩きスマホの人が来る。

すると仕事が一つ増える。

「この人は僕に気づいているのか」

確認しなければならない。

見ていない。

では、いつ気づくのか。

右へ行くのか。

左へ行くのか。

急に止まるのか。

そのまま突っ込んでくるのか。

相手の動きまで予測しなければならない。

なぜだ。

僕はお前の保護者ではない。

スマホを見たいなら見ればいい。

でも、自分の体くらい自分で運転してくれ。

歩きスマホをしている人の周りでは、前を見ている人の注意力が余分に使われる。

本人が画面に渡した注意力を、周囲が補填している。

そう考えると、あれは単なる「本人が危険な行為」ではない。

周囲に小さな仕事を発生させる行為でもある。

一回なら大したことはない。

少し避ければ終わる。

でも駅を歩けば何人もいる。

一人避ける。

また来る。

避ける。

また来る。

お前もか。

また避ける。

なぜ僕が歩きスマホ軍団の交通整理をしているんだ。

給料をくれ。

「ちゃんと周りも見えてる」は本当なのか

歩きスマホをする人の中には、

「いや、ちゃんと周りも見てるから」

と思っている人もいるだろう。

これも調べると面白かった。

2016年の日本の研究では、50人に歩きスマホ中、自分の注意が前方のどこまで及んでいると思うかを自己評価してもらい、実際に床のLEDに気づく距離と比較している。

すると、注意範囲を広いと自己評価していたグループでは、自分が思っていた範囲の方が実際より平均61.1センチ広かった。

研究では、およそ3分の1に注意範囲を過大評価する傾向が示唆されている。

つまり、

「俺は見えてるから大丈夫」

本当に?

ということだ。

さらに別の研究では、スマートフォンを使用している場合、使用していない場合と比べて知覚精度が低下し、有効視野が45〜56%狭くなったと報告されている。

数字を見ると結構すごい。

スマホを見ながらでも、目の端には人が映っているかもしれない。

でも「映っている」と「注意できている」は同じではない。

人間の目はカメラではない。

視界に入っているものすべてを、同じ精度で処理しているわけではない。

スマホに注意を向ければ、その分だけ周囲への注意が弱くなる。

当たり前と言えば当たり前だ。

でも、歩きスマホをしている本人は、その低下した注意力そのものを使って「俺は大丈夫」と判断している可能性がある。

なんだそのシステム。

少し怖い。

百歩譲って、やるなら前を見てくれ

ここまで書いておいてなんだが、僕は「歩きながら一瞬でもスマホを見た人間は全員許さん」と言いたいわけではない。

僕だって見ることはある。

地図を確認することもある。

急ぎの連絡が来ることもある。

乗り換えを確認したいときもある。

だから百歩譲る。

歩きながらスマホを見るとしよう。

もう百歩譲った。

でも、

前は見とけ。

気にしとけ。

ずっと画面を凝視するな。

人が前から来ていないか確認しろ。

自分が歩きスマホをしているという自覚を持ってくれ。

人が来たら自分から避けてくれ。

なぜ前を見て歩いている僕が、お前の分まで前を見なければならないんだ。

もちろん一番いいのは、端へ寄って止まることだ。

止まる。

スマホを見る。

確認する。

また歩く。

それだけだ。

十秒もかからない。

動画なら止まって見ればいい。

ゲームなら止まってやればいい。

地図なら止まって現在地を確認した方が、むしろ迷いにくい。

なのに、なぜか歩き続ける。

人類はいつから、移動中の数十秒まで何かを摂取し続けなければならなくなったのだろう。

移動時間まで埋めなくていい

歩きスマホを見ていると、別のことも考える。

何もしていない時間が、そんなに嫌なのだろうか。

駅から会社まで歩く。

五分。

ただ歩く。

それではダメなのか。

空を見る。

店を見る。

人を見る。

ぼーっとする。

何も考えない。

それでもいい。

でもスマホがあると、その五分にも何かを入れられる。

動画。

ゲーム。

SNS。

メッセージ。

ニュース。

音楽。

情報。

空白がなくなる。

便利だ。

僕だってスマホを使う。

だからスマホそのものを悪者にしたいわけではない。

ただ、便利になりすぎて、「何もしない時間」が全部埋められるようになった。

電車を待つ三分。

エレベーターを待つ三十秒。

信号を待つ一分。

駅まで歩く五分。

全部スマホで埋められる。

でも、歩いている時間くらい前を見てもいいんじゃないか。

世界は画面の外にもある。

なんて綺麗なことを言いたいわけではない。

僕が言いたいのはもっと単純だ。

人が来る。

危ない。

前を見ろ。

それだけだ。

『いい子のあくび』を読んだ

このことを考えるきっかけになった小説がある。

高瀬隼子さんの『いい子のあくび』だ。

この小説では、「なぜ歩きスマホをしている人を、いつも気づいた自分がよけてあげなければならないのか」という割に合わなさが描かれている。集英社による作品紹介でも、表題作の中心的な問題として紹介されている。

読んでいて思った。

わかる。

めちゃくちゃわかる。

僕も主人公のように思う。

ぶつかったろか、ぼけ。

実際、前から歩きスマホの人が来ても、僕は基本的にそのまま歩く。

僕は前を見ている。

真っ直ぐ歩いている。

向こうがスマホを見ながらこちらへ来る。

僕はそのまま行く。

距離が縮まる。

まだ見ている。

来る。

まだ見ている。

おい。

そして直前になって相手が顔を上げる。

僕を見る。

相手が避ける。

そうだ。

最初からお前が避けろ。

ただ、僕の場合は男性だから、ということもあるのかもしれない。

『いい子のあくび』の主人公は女性だ。

この違いは、作品を読むうえでも小さくないと思う。

ここを話し始めると小説の話を全部したくなるので、やめておく。

このへんは小説を読んでくれ。

おすすめだ。

集英社の高瀬さんへのインタビューを読むと、作品の背景には、気づいた側、かばう側、守る側の親切を当てにして社会が回っていることへの違和感があったことが語られている。

これも僕が歩きスマホに感じていたものとかなり近かった。

歩きスマホの人が安全なのは、その人が安全に歩けているからとは限らない。

誰かが気づいている。

誰かが避けている。

誰かが止まっている。

その小さな親切を、本人が知らないまま消費している。

そこに腹が立つ。

歩きスマホをしている本人だけが楽をしている

考えれば考えるほど、僕が嫌なのはここなのかもしれない。

歩きスマホをしている本人は、二つのことを同時に手に入れている。

移動できる。

スマホも見られる。

本人にとっては効率がいい。

駅まで歩く十分間に動画を見れば、移動と娯楽を同時に終えられる。

ゲームをすれば、移動時間をゲーム時間に変えられる。

なるほど。

本人だけを見れば合理的なのかもしれない。

でも、その効率の裏側で誰かが避けていたらどうだろう。

本人が節約した注意力を、周囲の人が支払っている。

本人が止まらずに済んだ数秒のために、別の人が進路を変える。

本人はスマホから目を離さずに済む。

その代わり、周りの人がその人から目を離せなくなる。

これでは、効率がよくなったというより、

面倒を他人に移しただけではないか。

僕が道の真ん中で突然目を閉じて歩き始めたら、周りは避けるだろう。

そして僕は家に着いて、

「目を閉じてても普通に歩けたわ」

と言う。

違う。

周りが頑張ったんだ。

歩きスマホはもちろんそこまで極端ではない。

それでも、自分が周囲へ向ける注意を減らした分、周囲がこちらへ向ける注意が増えることはある。

それを本人が意識しているかどうか。

僕が気になるのはそこだ。

「俺はぶつかってないから大丈夫」

ではない。

お前がぶつからなかった陰で、誰かが避けたかもしれない。

一度くらい、その可能性を考えてほしい。

そして次から自分で避けてほしい。

難しいことは言っていない。

前を見る。

人がいたら避ける。

スマホをじっくり見たいなら止まる。

小学生でも理解できそうな交通ルールだ。

それなのに、大人ができない。

スマホ、おそるべしである。

僕は別に、道を歩く全員に完璧な歩行を求めているわけではない。よそ見することもある。考え事をすることもある。僕だってぼんやり歩く。でも、スマホに夢中になっていると気づいたなら、一度顔を上げればいい。その一回で、周りの人がかなり楽になる。

自分が転ぶだけなら、まだ自分の問題だ

そして歩きスマホは、「本人が危ないだけだから好きにすればいい」で済まない。

ここは大事だと思う。

例えば歩きスマホをしていて、自分一人で電柱にぶつかった。

痛い。

それはもう、自分で反省してくれと思う。

段差につまずいた。

痛い。

だから前を見ろと言っただろう。

でも、人が多い場所では自分一人の問題ではなくなる。

人にぶつかる。

相手がよろける。

荷物を落とす。

階段なら転倒につながるかもしれない。

駅のホームなら、さらに怖い。

自分が線路側へふらつくだけではない。

接触した相手を危険な方向へ押してしまう可能性だってある。

そのとき、

「僕は歩きスマホしても大丈夫だと思っていました」

では済まない。

お前が大丈夫かどうかだけの話じゃない。

周りを大丈夫じゃなくする可能性がある。

だから僕は、「自己責任なんだから好きにすればいい」とは思えない。

歩きスマホは、自分の注意力を削った状態で、人のいる空間を移動する行為だからだ。

自分が使わなくなった注意力の分だけ、誰かが余計に気をつけなければならなくなるかもしれない。

事故が起きてからでは遅い

こういう話をすると、

「そんな大げさな」

と思う人もいるかもしれない。

確かに、歩きスマホをしたからといって毎回事故が起きるわけではない。

むしろほとんどの日は何も起きない。

だから続くのだろう。

今日も大丈夫だった。

明日もたぶん大丈夫。

そうやって積み重なる。

でも危険な行動というのは、毎回事故になるから危険なのではない。

事故になる可能性を余計に増やすから危険なのだ。

しかも歩きスマホの場合、自分だけではなく周囲の人まで巻き込む可能性がある。

だから「今まで大丈夫だった」は、明日も大丈夫という証明にはならない。

今まで周りが避けてくれていただけかもしれない。

たまたま人がいなかっただけかもしれない。

たまたま障害物がなかっただけかもしれない。

たまたま相手が前を見ていただけかもしれない。

安全だったのではなく、事故にならなかった。

この二つも、似ているようで違う。

それでも歩きスマホはなくならない

ここまで調べても、歩きスマホが完全になくならない理由を一つに決めることはできない。

習慣になっている人もいるだろう。

通知が来たら反射的に確認する人もいる。

移動時間を無駄にしたくない人もいる。

動画やゲームを中断したくない人もいる。

自分は周りが見えていると思っている人もいる。

今まで事故に遭ったことがないから大丈夫だと思っている人もいる。

たぶん、いろんな理由が重なっている。

でも僕が一番気になるのは、やっぱりこれだ。

歩きスマホをしていても、意外と歩けてしまう。

なぜなら周りに目があるからだ。

前から来る人が見る。

横から来る人が見る。

前を見ている人が避ける。

そうやって社会が穴を埋めてくれる。

すると本人には、自分が穴を開けている感覚が残りにくい。

これは僕の仮説にすぎない。

でも、対向する歩きスマホの人に対して周囲が早めに回避するという研究を知ると、まったく的外れとも思えない。

歩きスマホは、一人で成立している行動ではないのかもしれない。

周りの人の注意力に支えられて成立している。

そう思うと、なおさら言いたくなる。

前を見ろ。

僕は歩きスマホを絶対にしないのか

ここまで偉そうに書いてきた。

では僕は人生で一度も歩きスマホをしたことがないのか。

そんなわけはない。

僕だってスマホを見る。

歩きながら地図を確認してしまうこともある。

通知が気になって画面を見ることもある。

だから僕は、自分だけを完全な「前を見る人間」にして、歩きスマホをする人を別の生き物として批判したいわけではない。

自分もやる可能性があるからこそ、

気をつけようと思う。

スマホを見たいなら止まる。

どうしても歩きながら確認するなら、顔を上げる。

人がいるなら自分が避ける。

当たり前のことだ。

歩きスマホを一度でもしたら失格、なんて話ではない。

問題なのは、

周りが避けてくれることを当然にしてしまうことだと思う。

自分が画面を見ている間、誰かが自分を見てくれている。

その状態に甘えない。

それだけでもかなり違う。

百歩譲った僕の百歩を返してくれ

だから、もう一度言う。

百歩譲って、歩きスマホをするとしよう。

本当は止まってほしい。

でも百歩譲る。

前を見てくれ。

周りを気にしてくれ。

人が来たら自分から避けてくれ。

それすらしない。

画面を凝視する。

こちらへ一直線に来る。

僕が避ける前提で歩いてくる。

そしてすれ違う瞬間、画面を見る。

動画。

ゲーム。

おい。

百歩返せ。

僕の百歩を返してくれ。

緊急の連絡ならまだわかる。

地図ならまだわかる。

でも、別に緊急でなくても、結局は同じだ。

どんな理由であっても、人のいる場所を歩いている以上、前を見る責任まで消えるわけではない。

スマホを見る自由と、周りを見なくていい自由は別物だ。

好きな動画を見ればいい。

好きなゲームをすればいい。

でも僕は、お前のゲームのモブキャラではない。

勝手に避けるNPCでもない。

こっちにも進行方向がある。

前を見ろ。本当に、それだけだ

歩きスマホについて調べてみたら、思っていた以上にいろんな話につながった。

注意の範囲。

有効視野。

回避行動。

自分では周りが見えていると思っていても、実際にはそうではない可能性。

そして、歩きスマホをしている人に対して、前を見ている側が早めに避けるという研究。

でも結局、僕が言いたいことは最初から何も変わっていない。

前を見ろ。

本当に、それだけだ。

スマホを捨てろとは言わない。

動画を見るなとも言わない。

ゲームをするなとも言わない。

SNSをやめろとも言わない。

歩いているときくらい、周りを気にしてくれ。

人が来たら顔を上げてくれ。

自分から避けてくれ。

できないなら、一度止まってくれ。

それだけでいい。

今日も駅を歩く。

前から人が来る。

スマホを見ている。

前を見ていない。

僕はそのまま歩く。

距離が縮まる。

まだ見ている。

近づく。

まだ見ている。

おい。

さらに近づく。

ようやく顔を上げる。

僕を見る。

相手が避ける。

そうだ。

最初からお前が避けろ。

すれ違う瞬間、ちらっと画面が見える。

ゲームだった。

しょうもない。

僕はそのまま歩く。

前を見る。

人が来る。

僕は気づく。

必要なら避ける。

当たり前のことをする。

たったそれだけのことで、たぶん街は少し歩きやすくなる。

僕は前を向いて歩く。

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