職場に、空気みたいな人がいる。
悪い意味ではない。
本当に、空気なのだ。
ちゃんと出勤している。
ちゃんと仕事もしている。
休憩もしている。
帰るときには「お疲れさまでした」と言って帰っている。
なのに、気づかない。
ある日、仕事も後半に差しかかったころ、その人を見かけた。
「あれ?」
僕は思った。
「今日いたん?」
いた。
朝からいたらしい。
遅刻してきたわけでもない。
途中から出勤したわけでもない。
もちろん、どこかに隠れていたわけでもない。
最初からずっといた。
僕が認識していなかっただけだった。
これはすごい。
僕はその人を見ながら思った。
どうやったら、こんなに存在感を消せるんだ。
僕も消したい。
別に透明人間になって女子更衣室へ侵入したいわけではない。
そんな犯罪的な話ではない。
僕が消したいのは、職場での気配だ。
仕事はする。
必要な報告もする。
でも、できることなら余計な会話はしたくない。
「今日寒いですね」
「昨日何してたん?」
「休み何するん?」
「最近どう?」
知らん。
僕は静かに仕事をして、静かに休憩して、静かに帰りたい。
嫌われたいわけでもない。
ここは結構重要だ。
嫌われるのも面倒くさい。
「あの人感じ悪いよな」
なんて思われたら、それはそれで相手の頭の中に僕がいる。
存在感ありまくりである。
好かれなくてもいい。
嫌われなくてもいい。
できれば、
忘れられたい。
仕事だけ終わっている。
でも、誰がやったのかよく覚えていない。
「あれ? 今日あの人いたっけ?」
いた。
仕事は終わっている。
理想だ。
そこで僕は、その人を観察してみることにした。
彼は一体、何をしているのだろう。
いや、正確には、
何をしていないのだろう。
僕は彼を勝手にこう呼ぶことにした。
忍者師匠。
もちろん本人は知らない。
弟子ができたことすら知らない。
師匠を探してみる
翌日の朝礼。
僕はいつもと違った。
朝礼の内容よりも、師匠を探していた。
どこだ。
師匠。
どこにいる。
人の間を探す。
すると、
いた。
「あっ。たしかにいた。いる」
普通に立っていた。
昨日までなら、おそらく僕の視界には入っていても、脳が認識していなかった。
しかし今日は違う。
僕は師匠を探している。
だから見える。
師匠。
今日一日、あなたの技を盗ませていただきます。
もう今日は仕事なんていい。
師匠を追うのだ。
いや、仕事はしろ。
給料をもらっている。
だが気持ちとしては、もう清掃員ではない。
忍者研究家である。
師匠を見る。
そこで最初の特徴に気づいた。
顔が無だ。
怒っているわけではない。
眠そうでもない。
不機嫌そうでもない。
楽しそうでもない。
緊張しているようにも見えない。
ただ、
無。
😐
これだ。
この顔だ。
しばらくすると、近くにいる人たちが何かで盛り上がった。
笑っている。
楽しそうだ。
僕も普通なら、何となくそちらを見る。
何の話だろうと思う。
場合によっては笑う。
師匠を見る。
😐
同じ顔だ。
変わらない。
師匠は常にこの顔だ。
怖い無表情とは違う。
「機嫌悪いんかな」と思わせるような顔でもない。
それなら逆に気になる。
師匠の顔には、
こちらに何も感じさせない力がある。
表情というものは、思っている以上に「私はここにいます」という信号なのかもしれない。
笑う。
驚く。
眉をひそめる。
困る。
周囲を見る。
そういう小さな反応によって、人は存在を周囲に知らせ続けている。
師匠には、それがほとんどない。
忍法その一。感情消失。
僕は心の中でメモした。
師匠は音がしない
次に気づいたのは、音だった。
師匠は動く。
しかも結構速い。
席を立ったと思ったら、もういない。
戻ってきたと思ったら、いつの間にか座っている。
普通、人が動けば何かしら音がする。
椅子を引く。
ガタッ。
物を置く。
ドン。
歩く。
バタバタ。
立ち上がる。
「よいしょ」
仕事を始める。
「さて」
疲れる。
「はぁー」
人間は、意外とうるさい。
僕もそうだ。
おそらく無意識に、いろんな音を出している。
でも師匠にはそれがない。
スッ。
気づいたらいない。
スッ。
気づいたらいる。
速いのに静か。
これが恐ろしい。
ゆっくり静かに動くなら分かる。
師匠は速い。
なのに音がない。
移動しているところをこちらが認識する時間まで短い。
立つ。消える。
もはや移動ではない。
場面転換である。
さらに一日観察していて、もっと恐ろしいことに気づいた。
僕は師匠の、
笑い声を聞いていない。
咳も聞いていない。
くしゃみも聞いていない。
独り言も聞いていない。
ため息も聞いていない。
もちろん、たまたまだろう。
毎日一度も咳やくしゃみをしない人間だと言いたいわけではない。
ただ、少なくとも僕が一日観察していた間、
聞かなかった。
生体音がない。
一瞬、不安になった。
大丈夫だろうか。
生きているのか。
見る。
動いている。
しかも速い。
生きている。
師匠だ。
僕なんて一日働いていたら、何回「よいしょ」と言っているか分からない。
ため息も出る。
独り言も出る。
何なら鼻歌まで出る。
自分から「僕はここですよ」と周囲へ通知を送り続けているようなものだ。
師匠は違う。
通知OFFで生きている。
忍法その二。
無音移動。
そして、
無駄な生体音を発生させない。
徹底している。
視線を配らない
さらに見ていると、視線にも違いがある気がした。
人は周囲をよく見る。
誰かが入ってきた。
見る。
何か音がした。
見る。
誰かが笑った。
見る。
知っている人が横を通った。
見る。
そして目が合う。
会釈する。
一言喋る。
そこから会話が始まる。
僕もたぶん、これをかなりやっている。
師匠は違う。
視線を配らない。
必要もないのに周囲をキョロキョロ見ない。
誰かが何かしているからといって、いちいち反応しない。
なるほど。
会話を断っているんじゃない。
会話の入口を発生させていない。
目が合わなければ、
「あっ」
がない。
「あっ」がなければ、
「今日寒いですね」
も始まらない。
すごい。
師匠は会話が始まってから逃げているのではない。
会話が生まれる前の受精卵くらいの段階で消滅させている。
僕はどんどん師匠に魅了されていった。
休憩室にも師匠はいた
休憩になった。
僕は休憩室へ行った。
そこで、また気づいた。
師匠、いるやん。
今まで何度も同じ休憩室にいたはずなのに、僕はほとんど意識していなかった。
師匠は一人だけ別世界にいた。
何かを見ている。
スマホだ。
何を見ているんだろう。
少し観察する。
ドラマだ。
師匠。
そっちの世界にいたんですね。
周囲では人が喋っている。
笑っている。
何かの話で盛り上がっている。
でも師匠はドラマを見ている。
体は休憩室にある。
しかし精神はもう別の世界にいる。
誰かを避けようとしているようにも見えない。
「俺に話しかけるな」という威圧感もない。
ただ、
ドラマを見ている。
自分が見たいものを見ている。
周囲が何をしているのかを気にしていない。
ここで僕は少し考えた。
師匠は「一人になろう」と必死になっているわけではないのかもしれない。
単純に、
自分のやりたいことをやっているだけなのではないか。
人を避けているというより、
自分の世界に集中している。
だから結果的に、周囲との接触が減る。
忍法その三。
別世界転移。
これは僕にも使えるかもしれない。
そう思った。
このときは。
師匠は喋れないわけではない
ここまで書くと、師匠がただの無口で、人とコミュニケーションを取れない人のように思えるかもしれない。
違う。
必要なことはちゃんと喋る。
仕事が終われば報告する。
困りごとがあれば聞く。
分からないことがあれば確認する。
必要なコミュニケーションは普通に取っている。
ここが重要だった。
たとえば仕事の報告。
「○○終わりました」
伝える。
相手が答える。
終わり。
スッ。
立ち去る。
ここだ。
普通なら、ここから第二部が始まることがある。
「○○終わりました」
「ありがとう」
「いやー、今日あそこめちゃくちゃ汚れてましたわ」
「そうなん?」
「昨日なんかあったんですかね」
第二部開幕。
師匠には、
第二部がない。
必要な情報を伝えた。
終わった。
立ち去る。
美しい。
つまり師匠は、コミュニケーションを拒絶しているわけではない。
余計なものを足していない。
これはかなり大きい。
もし挨拶を無視したり、報告をしなかったり、人に聞かれても答えなかったりすれば、
「あの人感じ悪いな」
となる。
それはそれで存在感が生まれる。
悪目立ちする。
師匠は違う。
必要なことはちゃんとやる。
だから嫌な印象も残しにくい。
そして用件がなくなった瞬間、
忍者に戻る。
長年かけて完成した忍術なのかもしれない
師匠は勤続年数も長いと思う。
これも大きいのかもしれない。
新人には、この忍術は無理だ。
新人が無言でいたら、
「大丈夫?」
「分からないことない?」
「次何するか分かる?」
「慣れた?」
「昨日どうやった?」
めちゃくちゃ話しかけられる。
新人は何もしなくても注目人物だ。
周囲も見る。
仕事ができているか。
困っていないか。
どんな人なのか。
続きそうか。
新人が師匠の真似をして、
😐
この顔をしていても、
「○○さん、大丈夫?」
と話しかけられる。
忍術、強制解除。
師匠には長い歴史がある。
今日突然、無口になったわけではない。
おそらく長い年月をかけて、
「あの人はああいう人」
というキャラクターを完成させている。
師匠が一日喋らなくても、
誰も、
「今日どうしたん?」
とは聞かない。
いつも通りだからだ。
これ、めちゃくちゃ強い。
新人にはできない。
僕が明日突然無口になっても、
「今日静かやな」
と言われる可能性がある。
逆に目立つ。
師匠は違う。
何年も積み重ねている。
年齢も多少関係しているのかもしれない。
年齢そのものというより、
年齢、勤続年数、周囲との関係、その人のキャラクター。
そういうものが長い時間をかけて固まっている。
忍者師匠、キャリアが違う。
師匠の忍術には、
熟成期間が必要なのだ。
周りの空気に飲まれない
そして僕が師匠を見ていて、一番すごいと思ったのがこれだった。
周りの空気に飲まれない。
みんなが笑っている。
師匠。
😐
誰かが騒いでいる。
師匠。
😐
休憩室でみんなが喋っている。
師匠。
ドラマ。
誰かが何かしている。
師匠。
必要がなければ見ない。
僕たちは思っている以上に、周囲に合わせている。
誰かが笑えば、何となく笑う。
誰かが見れば、自分も見る。
誰かが「しんどい」と言えば、「しんどいですね」と返す。
誰かが喋れば、何となく会話に入る。
師匠にはそれが少ない。
ここで僕は、最初の考えが少し変わった。
僕は師匠を、
「空気みたいな人」
だと思っていた。
でも違うのかもしれない。
師匠は空気になっているんじゃない。
周りの空気に飲まれていない。
周囲がどうであろうと、自分のペースが変わらない。
必要な仕事をする。
必要なことを喋る。
休憩になったらドラマを見る。
終わったら帰る。
それだけだ。
その結果として、存在感が薄くなっている。
そして一日観察した終盤、僕はとんでもないことに気づいた。
待て。
今日、
師匠、
誰にも話しかけられてなくない?
もちろん業務上必要なやり取りはある。
でも、雑談として誰かが師匠のところへやって来る場面を、僕はほとんど見ていない。
すごい。
僕が欲しかったのはこれだ。
会話を上手に終わらせる方法ではない。
会話が始まらない方法だ。
師匠は会話を断っているのではない。
そもそも会話が飛んでこない。
長年かけて、
「必要なときには話す。でも雑談する人ではない」
という関係を周囲と完成させている。
もう徹底的に忍者だ。
忍者より忍者である。
音を立てない。
感情を見せない。
視線を配らない。
素早く移動する。
痕跡を残さない。
必要なことだけ喋る。
用事が終われば立ち去る。
気づけばいる。
気づけばいない。
完璧だ。
生まれた時代が違えば、大活躍していただろう。
城へ潜入する。
誰にも気づかれない。
情報を盗み出す。
音もなく城を出る。
翌朝になって、
「昨日、誰かいなかったか?」
「いえ、誰も」
いた。
師匠はいた。
だがもう山を越えている。
残念ながら、師匠が生まれたのは現代である。
忍び込むのは城ではない。
職場だ。
手裏剣も持っていない。
休憩中はスマホでドラマを見ている。
それでも僕にとっては、
立派な忍者である。
僕も忍者になってみた
ここまで観察すれば、当然思う。
僕にもできるんじゃないか。
翌日。
実践してみることにした。
昨日、師匠から学んだことを思い出す。
感情を消す。
音を立てない。
視線を配らない。
余計なことを喋らない。
素早く動く。
休憩では自分の世界へ行く。
必要なことだけ喋る。
よし。
今日から僕も忍者だ。
まずは朝礼。
😐
無。
周囲を見ない。
余計に動かない。
喋らない。
よし。
いい感じだ。
気配を消せている。
僕はいま空気だ。
昨日の師匠と同じだ。
誰も僕の存在など――。
「おお! おはよう!」
……。
んんん?
あれれれれ??
見つかった。
開始数秒である。
おかしい。
僕はいま気配を消していたはずだ。
かなりいい感じだった。
音も出していない。
視線も配っていない。
顔だって、
😐
これだった。
なのに。
「おお! おはよう!」
元気いっぱいに発見された。
「今日のここやけど、しっかり頼むで!」
「はいっ。」
……。
はいっ。
元気に返事までしてしまった。
存在を認識されているどころか、
期待まで乗せられている。
師匠を見る。
😐
また無の顔をしていた。
誰にも話しかけられていない。
僕は朝礼開始から数分で、
挨拶され、
仕事を個別に頼まれ、
元気よく返事までしている。
師匠。
なんで僕だけこんなに見つかるんですか。
いや。
まだ朝礼だ。
ここからだ。
朝礼は人が集まる。
忍者にとって不利なフィールドだったのかもしれない。
よし。
自分の席に移動だ。
音を立てない。
スッ。
座る。
視線を配らない。
😐
無。
今度こそ完璧だ。
僕はいない。
ここにあるのは机と椅子だけだ。
僕という人間は――。
「○○さん!」
また見つかった。
なぜだ。
なぜ僕が見える。
「これってどうすれば?」
僕が聞きたい。
いや、仕事のやり方ではない。
どうすれば僕は見つからなくなるんですか。
今、一番それを聞きたいのは僕だ。
師匠を見る。
😐
無。
誰にも聞かれていない。
同じ職場にいる。
僕だって今日は静かにしている。
同じような顔もしている。
なのに質問は僕のところへ飛んでくる。
何が違うんだ。
師匠。
僕にもその術を教えてください。
もちろん師匠は僕が弟子だと知らない。
だから教えてくれない。
僕が勝手に弟子入りしているだけである。
ようやく休憩。今度こそ師匠になる
ようやく休憩だ。
疲れた。
仕事にではない。
気配を消すことに疲れた。
朝礼では、
「おお! おはよう!」
と発見された。
「今日のここやけど、しっかり頼むで!」
と期待された。
席へ移動すれば、
「○○さん!」
と固有名詞で捕捉された。
さらに、
「これってどうすれば?」
と質問された。
僕が聞きたい。
だが、まだ諦めない。
休憩室ならいける。
昨日の師匠を思い出す。
そうだ。
ドラマだ。
師匠は休憩中、スマホでドラマを見ていた。
周囲を見ず、自分の世界へ行っていた。
これなら僕にもできる。
よし。
スマホをセットする。
ドラマを再生。
視線を落とす。
周囲を見ない。
会話に入らない。
僕はいま休憩室にはいない。
肉体だけここに置いて、
精神はドラマの世界へ行く。
😐
よし。
完璧だ。
師匠。
ようやく分かってきました。
これが忍法、
別世界転移。
誰も僕に話しかけるな。
僕はいない。
ここにいるのは肉体だけ――。
「おい! ○○! 何見てん?」
……。
なんでやねん。
師匠。
話が違う。
あなた昨日、同じことしてましたよね?
僕、一日見てましたよ。
スマホでドラマ見てましたよね?
誰も話しかけてなかったじゃないですか。
なんで僕が同じことしたら、
ドラマがコミュニケーションツールになるんですか。
師匠を見る。
😐
ドラマを見ている。
誰にも話しかけられていない。
同じことしてるやん。
何が違うんだ。
ここで僕はようやく気づき始めた。
たぶん、
行動を真似するだけではダメなのだ。
師匠がドラマを見る。
周囲は、
「いつもの師匠」
で終わる。
僕がドラマを見る。
「おい! 何見てん?」
になる。
僕が無表情になる。
「今日どうしたん?」
になるかもしれない。
僕が静かにする。
逆に珍しい。
つまり、僕が昨日まで積み重ねてきたものが邪魔をしている。
僕はすでに周囲から、
「話しかけても大丈夫な人」
「質問しても大丈夫な人」
「何見てるか聞いても大丈夫な人」
として認識されているのかもしれない。
一日😐になったくらいでは、
過去の僕が消えてくれない。
師匠の忍術は、フォームではなかった。
無表情にすれば完成。
静かに歩けば完成。
ドラマを見れば完成。
そんな簡単なものではない。
長い年月をかけて築かれた、
人との距離そのものだった。
僕はスマホを見ながら思った。
無理だ。
午後は諦めた。
僕の忍者生活は、
半日で終了した。
存在感は一日では消せない
今回、師匠を観察して、そして自分でも真似してみて分かった。
存在感というのは、単純な声の大きさだけではない。
表情。
視線。
動作。
音。
喋る量。
人との距離。
仕事の仕方。
周囲への反応。
そして、それまで何年もかけて作ってきた関係。
全部が合わさって、
その人の「気配」になっている。
だから僕が一日だけ師匠の真似をしても消えなかった。
むしろ、
「おはよう!」
「しっかり頼むで!」
「○○さん!」
「これどうすれば?」
「何見てん?」
と、
いつも通り見つかった。
でも考えてみれば、これは別に悪いことでもない。
話しかけてもらえるのは、それまで僕がそういう関係を作ってきたからなのだろう。
一方で師匠も、誰かを拒絶し続けた結果、孤立したわけではない。
必要な報告はする。
困ったら聞く。
挨拶もする。
帰るときには、
「お疲れさまでした」
と言う。
礼儀はある。
仕事上必要なコミュニケーションもある。
ただ、
余計なことを言わない。
それだけなのだ。
誰かを嫌っているわけでもない。
周囲に「話しかけるな」と威圧しているわけでもない。
自分のやることをやっている。
仕事をする。
必要なら喋る。
休憩ではドラマを見る。
そして帰る。
だから僕は、師匠を見ていて不快にならない。
むしろ、
めちゃくちゃ快適そうだな
と思う。
最初、僕は師匠のことを「空気みたいな人」だと思った。
存在感がない人。
気配が薄い人。
でも一日観察してみて、それは少し違うと思った。
師匠は、
空気になろうとしているわけではない。
周囲の空気に飲まれず、
自分のペースで生きている。
その結果、
空気みたいになっている。
たぶん師匠自身は、
「今日も存在感を消すぞ」
なんて一度も思っていない。
僕だけだ。
そんなことを考えているのは。
勝手に観察して、
勝手に「忍者師匠」と名づけて、
勝手に弟子入りして、
勝手に翌日真似して、
勝手に失敗して、
午後には勝手に引退した。
師匠は何も知らない。
今日も普通に働いている。
そして仕事が終わる。
「お疲れさまでした」
師匠が言う。
必要な挨拶をして、
スッ。
帰っていく。
余計な一言はない。
振り返れば、もういない。
最後まで完璧だ。
僕も帰る。
「お疲れさまでしたー!」
……。
声がでかい。
師匠への道は、
まだまだ遠い。
