僕は、人の名前を覚えるのが苦手だ。
かなり苦手だ。
初対面の人から、
「田中です。よろしくお願いします」
と言われる。
僕も、
「田中さんですね。よろしくお願いします」
と返す。
ここまではいい。
ちゃんと名前を聞いているし、ちゃんと復唱までしている。
なんならこの復唱は、僕なりの工夫である。
ただ「よろしくお願いします」と返すのではなく、「田中さんですね」と一度口に出す。
脳に言い聞かせているのだ。
田中さんだぞ。
この人は田中さんだぞ。
今、覚えろよ。
ちゃんと保存しろよ。
僕はここまでやっている。
そして翌日。
顔を見る。
「あ、昨日の人だ」
わかる。
顔は完璧に覚えている。
昨日どこで会ったのかも覚えている。
どんな話をしたのかも覚えている。
でも、名前だけがない。
きれいにない。
昨日あれだけ脳に業務命令を出したのに。
田中さんだけが消えている。
田中さん本人は目の前にいる。
僕の脳内から田中さんだけがいなくなっている。
顔は覚えている。名前だけが消える
不思議なのは、人そのものを忘れているわけではないことだ。
僕はむしろ、人の顔はかなり覚えている。
一度会った人なら、「この人、前に会ったことがあるな」と気づくことが多い。
どこで会ったかも、わりと覚えている。
会話の内容も覚えている。
さらに、なぜか出身地も覚えている。
「この人、奈良出身だったな」
みたいなことは残っている。
最寄り駅まで覚えていることがある。
「確か○○駅から来てる人だったな」
そこまで覚えている。
顔。
覚えている。
前に話した内容。
覚えている。
出身地。
覚えている。
最寄り駅。
なぜか覚えている。
名前。
ない。
なんでやねん。
最寄り駅を保存する容量があるなら、先に名前を保存してくれ。
優先順位がおかしい。
僕の脳内では、
顔:即採用。
会話内容:採用。
出身地:採用。
最寄り駅:なぜか採用。
名前:研修期間。
みたいになっている。
名前だけ、なかなか正社員になれない。
人の顔と名前を覚えるのは、神経衰弱に似ている
考えてみると、僕にとって人の顔と名前を一致させる作業は、神経衰弱に似ている。
顔のカードをめくる。
知っている。
この人は知っている。
次に名前のカードをめくる。
……誰?
違う。
もう一度。
顔のカードをめくる。
昨日会った人。
間違いない。
名前のカードをめくる。
佐藤さん?
違う。
また裏返す。
数日後。
顔のカードをめくる。
もちろん知っている。
名前のカードをめくる。
田中さん。
揃った。
ようやくである。
しかも厄介なのは、他のカードなら簡単に揃うことだ。
顔と出身地。
揃う。
顔と最寄り駅。
揃う。
顔と以前話した内容。
揃う。
顔と好きなもの。
揃う。
顔と名前。
揃わない。
僕の神経衰弱、ルールがおかしい。
「奈良出身で、○○駅から通っていて、この前こんな話をした人」
ここまでわかっているのに、
「名前なんでしたっけ?」
となる。
僕はこの人について、かなり知っている。
ただし、名前だけ知らない。
人に興味がないから覚えられないのか
以前は、少し気になっていた。
僕は、人に興味がないのだろうか。
よく言うではないか。
「人に興味を持てば、自然と名前も覚える」
みたいなことを。
なるほど。
では僕は、人に興味がないから名前を覚えられないのかもしれない。
そう考えたこともある。
でも、どうもしっくりこない。
だって、人に興味がないなら、出身地なんて覚えているだろうか。
最寄り駅まで覚えているだろうか。
以前話した内容まで覚えているだろうか。
「この人、前にこういうこと言ってたな」
ということは結構覚えている。
なのに名前だけ出てこない。
それなら、もしかすると僕は、
人に興味がないのではなく、名前に興味がないのではないか。
そんな気がしてきた。
田中さんでも佐藤さんでも、その人はその人だ
僕にとって名前というものは、かなり「ラベル」に近いのかもしれない。
たとえば目の前に、ある人がいる。
その人はよく笑う。
猫が好き。
奈良出身。
○○駅から通っている。
コーヒーはブラック。
休みの日は映画を見る。
そういう情報を知っていくと、その人の輪郭が僕の中にできていく。
僕が興味を持つのは、たぶんそっちなのだ。
その人が何を好きなのか。
何を嫌いなのか。
どういう話をするのか。
どういうときに笑うのか。
何を考えているのか。
一方、名前は、
「田中」
である。
もちろん本人にとっては大切な名前だ。
でも、僕がその人を知るうえでは、田中でも佐藤でも、その人の性格は変わらない。
昨日まで田中さんだった人が、今日から佐藤さんになったとしても、僕の中にあるその人の人物像はほとんど変わらない。
だから僕の脳は、
「これは人物を理解するうえで、そんなに重要な情報ではない」
と勝手に判断しているのかもしれない。
いや、判断するな。
覚えてくれ。
こっちは困っている。
歴史上の人物の名前は覚えられる
さらに不思議なことがある。
歴史上の人物の名前は覚えられるのだ。
織田信長。
豊臣秀吉。
徳川家康。
明智光秀。
普通に覚えている。
もっとたくさん覚えている。
会ったこともないのに。
一方で、昨日会った人。
顔は覚えている。
昨日話した内容も覚えている。
どこから通っているかも覚えている。
でも、
「……名前なんやったっけ」
となる。
僕は明智光秀を覚えている場合ではない。
昨日会った人を覚えろ。
ただ、これにも理由があるのかもしれない。
歴史上の人物は、名前だけで覚えているわけではない。
「織田信長」という名前を聞けば、さまざまな出来事が一緒についてくる。
本能寺。
天下統一。
安土城。
その人が何をしたのかという物語と、名前が最初から結びついている。
明智光秀もそうだ。
名前だけがポツンと存在しているわけではない。
出来事の中に名前がある。
一方、初対面の人から突然、
「田中です」
と言われても、その瞬間の僕にとって「田中」という二文字には、まだ何もくっついていない。
田中。
以上。
情報が少なすぎる。
その後、何度か話す。
出身地を知る。
趣味を知る。
性格がわかってくる。
少しずつ、その人の物語ができていく。
そのあたりでようやく、
「あ、この人が田中さんなんだ」
と名前まで接着される。
もしかすると僕は、名前を文字や音として覚えるのが苦手なのではなく、名前をその人の物語と結びつけるまでに時間がかかるのかもしれない。
だから、名前を聞いた瞬間に復唱する
とはいえ、
「僕は名前というラベルに興味がないので」
では社会生活を送れない。
そんなことを本人に言ったら、普通に感じが悪い。
だから僕も、ちゃんと覚えようとしている。
初対面で名前を聞いたら、なるべくその場で復唱する。
「田中です」
「田中さんですね。よろしくお願いします」
ただの挨拶に見えるが、僕の中では違う。
これは記憶作業である。
口に出すことで、脳に刻み込もうとしている。
田中。
田中。
田中。
頼むから残ってくれ。
さらに、その後の会話でも意識して名前を使う。
「田中さん、これどうします?」
「田中さん、ありがとうございます」
「田中さん、今日忙しいですね」
普段なら「すいません」で済むところを、あえて名前で呼ぶ。
復習である。
学生時代の英単語帳と同じだ。
一回では覚えられない。
何度も使う。
何度も見る。
何度も口にする。
そこまでして、ようやく僕の脳内で、
名前:研修期間
から、
名前:正社員登用
になる。
そして不思議なことに、一度定着した名前はなかなか忘れない。
学生時代の同級生なんて、今でも覚えている。
何年も会っていなくても出てくる。
だから僕は、名前を忘れやすいというより、
名前が長期記憶に入るまでが異常に長い
のかもしれない。
名前だけ、脳への入館審査が厳しすぎる。
でも翌日には消えている
問題は、そこまで努力しても消えることがあることだ。
昨日、
「田中さんですね」
と復唱した。
会話の途中でも、
「田中さん」
と呼んだ。
何度も呼んだ。
よし。
今日は覚えた。
完璧だ。
そう思って帰る。
寝る。
翌日。
顔を見る。
知っている。
もちろん知っている。
昨日話した。
さて、名前は。
…………。
消えている。
あれだけやったのに。
僕の脳は夜中に何をしているのだ。
寝ている間に、
「不要なデータを整理します」
みたいな処理が走っているのだろうか。
写真。
残す。
会話内容。
残す。
奈良出身。
残す。
最寄り駅。
残す。
田中。
削除。
待て。
それを消すな。
名前がわからなくても、意外と生活できてしまう
そして、名前がなかなか定着しない理由を考えていて、もう一つ思い当たることがある。
名前がわからなくても、案外なんとかなるのだ。
職場でもそうだ。
名前を呼ばなくても、
「すいませーーん」
で人は振り向いてくれる。
「ちょっといいですかー」
でもいける。
近くまで行って、
「あのー」
でも会話は始められる。
名前がなくても、コミュニケーションは成立してしまう。
これがよくない。
僕の脳も学習しているのかもしれない。
「名前なくてもいけるやん」
と。
だから心のどこかで、
「まあ、覚えんでもなんとかなるか」
と思っているのかもしれない。
もちろん意識としては覚えたい。
間違えたくない。
失礼になりたくない。
だから復唱もする。
意識して名前も呼ぶ。
でも、さらに深いところでは、
「最悪、『すいませーーん』がある」
と思っている。
保険が強すぎる。
いちばん困るのは「今さら聞けない」期間
名前を覚えられない人間には、恐ろしい期間がある。
初対面なら聞ける。
「すみません、もう一度お名前いいですか?」
これは普通だ。
二回目も、まあいける。
「すみません、名前覚えるの苦手で……」
これも許される。
問題は、その先である。
何度か話している。
向こうは当然、僕が名前を知っていると思っている。
僕も、名前を知っている人間のような顔で話している。
でも実際は知らない。
ここまで来ると、聞きにくい。
「すみません、お名前なんでしたっけ?」
と言った瞬間、
「え、今まで知らんかったん?」
となりそうで怖い。
こうして名前を知らないまま関係だけが育っていく。
顔は知っている。
性格もわかる。
出身地も知っている。
最寄り駅も知っている。
何度も話している。
でも名前は知らない。
変な関係である。
ここまで来ると、第三者がその人の名前を呼ぶ瞬間を待つ。
誰か言ってくれ。
頼む。
今、この人の名前を呼んでくれ。
そして誰かが、
「田中さん、これお願いします」
と言う。
田中!
そうやった!
脳内で拍手が起こる。
僕は何をしているのだろう。
名前だけ、間違えたときのダメージが大きすぎる
それでも、名前なんてただのラベルではないか。
そんな考えも、僕の中にはある。
ところが名前には、恐ろしい特徴がある。
間違えたときのダメージが異常に大きい。
たとえば出身地を間違える。
「大阪出身でしたっけ?」
「いや、奈良です」
「あ、奈良でしたね。すみません」
ダメージ5。
最寄り駅を間違える。
「○○駅でしたっけ?」
「一個隣です」
「あ、そうでした!」
ダメージ2。
好きな食べ物を間違える。
「ラーメン好きでしたよね?」
「いや、そんなに笑」
「あれ、誰と間違えたんやろ笑」
ダメージ1。
ところが名前。
「佐藤さん、これお願いします」
「……田中です」
ダメージ100。
致命傷である。
一瞬で空気が変わる。
そして相手だけではない。
間違えた自分にも100入る。
うわああああああ。
やってしまった。
なんでよりによって名前を間違えた。
最寄り駅なら笑って終わったのに。
名前という情報、扱いが重すぎる。
僕の脳内では優先順位が低いくせに、社会では最重要データの一つとして扱われている。
非常に困る。
ということは、名前って大事なのか
ここまで考えて、ふと思う。
名前を間違えると、なぜこんなに申し訳なく感じるのだろう。
たぶん、名前はただの文字列ではないからだ。
僕にとってはラベルに近くても、その人にとっては違う。
生まれてから何十年も、その名前で呼ばれてきた。
家族にも、友達にも、先生にも、同僚にも、その名前で呼ばれている。
名前を呼ばれることで、
「自分に話しかけられている」
とわかる。
名前を覚えてもらうことで、
「自分という人間を認識してもらえている」
と感じることもある。
逆に名前を間違えられると、
「自分ではなく、別の誰かと混同されている」
と感じることもあるだろう。
なるほど。
じゃあ名前って大事なのか。
……。
それはそうだ。
ここまで8000字近く考えなくてもわかりそうなことに、ようやく辿り着いた。
名前は大事だ。
できれば覚えたほうがいい。
間違えないほうがいい。
僕だって自分の名前をずっと間違えられたら、たぶん気になる。
「いや、違うんだけどな」
と思う。
人の名前なんてラベルじゃないか、と言いながら、自分の名前を別の名前で呼ばれ続けたら訂正する。
人間とは勝手なものである。
僕もその一人だ。
では、名前を覚えられないことは失礼なのか
ここで最初の問いに戻る。
人の名前を覚えられないことは、失礼なのだろうか。
僕は、覚えられないこと自体は失礼ではないと思う。
記憶には得意不得意がある。
顔を覚えるのが得意な人もいれば、名前を覚えるのが得意な人もいる。
一度聞いただけで覚えられる人もいる。
僕のように、何度も聞いて、何度も呼んで、ようやく定着する人もいる。
忘れることそのものを完全にコントロールするのは難しい。
だから、
「名前を忘れた=相手に興味がない」
「名前を覚えていない=失礼な人」
とまで決めつけるのは、少し違う気がする。
僕は名前を忘れている。
でも、その人を忘れているわけではない。
顔を覚えている。
前に話したことを覚えている。
その人がどこから来ているのかも覚えている。
何が好きなのかを覚えていることもある。
名前という一つの情報だけが、うまく人物と接続されていない。
それを「あなたに興味がない」と同じ意味にされると、ちょっと違うんだけどな、と思う。
ただし。
ここにはもう一つ大事なことがある。
僕にとって名前の重要度が低いからといって、相手にとっても低いとは限らない。
これだと思う。
「覚えられない」と「覚えようとしない」は違う
僕は名前そのものには、それほど興味がないのかもしれない。
でも、だからといって、
「名前なんてどうでもいいでしょ」
と相手に言うのは違う。
僕にとって重要ではない。
だからあなたにとっても重要ではない。
この飛躍はおかしい。
相手にとって名前が大切なら、できるだけ覚えたい。
だから僕は復唱する。
だから普段から意識して名前を呼ぶ。
それでも忘れる。
そこはもう許してほしい。
僕も頑張っている。
「田中さんですね」
と聞いた瞬間に復唱している僕の裏側では、かなり必死な記憶作業が行われている。
名前を覚えられないことと、名前を覚えようとしないことは違う。
僕はこの違いが結構大事だと思う。
忘れてしまうことはある。
間違えてしまうこともある。
でも、
「どうせ名前なんてどうでもいい」
と最初から相手を雑に扱うのとは違う。
名前を忘れてしまったら、謝ってもう一度聞けばいい。
間違えたら訂正すればいい。
そしてまた覚えればいい。
できればダメージ100を食らう前に。
人を覚えるということは、名前を覚えることだけではない
今回あらためて考えてみて、一番しっくりきたのはこれだった。
僕は人の名前を覚えられない。でも、人を覚えていないわけではない。
名前は、その人を構成する大切な情報の一つだ。
でも、その人のすべてではない。
名前を知っているけれど、その人について何も知らないこともある。
逆に、名前がすぐ出てこなくても、その人についてたくさん覚えていることもある。
どこで育ったのか。
何が好きなのか。
何を嫌うのか。
どんな話をしたのか。
どんなときに笑ったのか。
その人が以前、何気なく話していたこと。
そういうものも全部、
「その人を覚えている」
ということなのではないだろうか。
名前だけ完璧に覚えていても、以前話したことを全部忘れていたら、それはそれで少し寂しい。
「田中さんですよね!」
「はい」
「以前何か話しましたっけ?」
名前だけ100点。
その他0点。
それもなんか違う。
もちろん理想は全部覚えていることだ。
名前も覚える。
顔も覚える。
話した内容も覚える。
出身地も覚える。
最寄り駅も覚える。
でも人間の記憶は、そんなに都合よくできていない。
少なくとも僕の記憶はできていない。
最寄り駅を優先的に保存する謎仕様である。
それでも僕は、名前を呼ぶ
だからこれからも、僕は人の名前を覚えようと思う。
名前なんてラベルだと思う自分もいる。
その人自身のほうが大事だと思う自分もいる。
田中さんでも佐藤さんでも、その人の性格が変わるわけではないと思っている。
でも同時に、
そのラベルを大切にしている人がいることもわかる。
僕にとっての重要度と、相手にとっての重要度は違う。
だったら、覚えようとするくらいはできる。
初対面で、
「田中です」
と言われたら、
「田中さんですね」
と返す。
次に会ったら、できるだけ、
「田中さん」
と呼ぶ。
何度も呼ぶ。
神経衰弱のカードが揃うまで。
そのうち、
顔と名前がパチンとつながる。
そうなれば強い。
名前:正社員登用。
もう簡単には消えない。
それまでは、何度でも覚え直す。
人の名前を覚えることは大事だ。
それはそうだ。
でも、名前を忘れてしまったからといって、その人まで忘れたわけではない。
僕はあなたの顔を覚えている。
前に話したことも覚えている。
どこから来ているのかも覚えている。
もしかしたら最寄り駅まで覚えている。
ただ、名前だけが出てこない。
申し訳ない。
本当に申し訳ない。
だから今日も僕は、意識して人の名前を呼ぶ。
忘れないために。
それでもどうしても出てこなかったら。
そのときはたぶん、いつものようにこう言う。
「すいませーーん、ちょっといいですかー」
