制服って、なんであんなに可愛いんだろう。
あ、変態的な記事ではないので、安心してほしい。
三十三歳のおっさんが、朝から真顔でこんなことを考えている。
気持ち悪いって?
わかる。
今回は多めに見てほしい。
僕が気になっているのは、制服を着ている誰かではない。
「制服」という服そのものだ。
ブレザー。シャツ。ネクタイ。リボン。プリーツスカート。セーラー服。詰襟。
街で見かけても、ドラマや映画で見ても、制服には私服とは少し違う魅力がある。
なんというか、完成されている。
なんだ、あの完成された服は。
でも、いざ「制服の何がそんなに魅力的なの?」と聞かれると、うまく答えられない。
リボン?
プリーツ?
色?
形?
青春っぽいから?
どれも正しいような気がするし、どれもそれだけでは足りない気がする。
僕は制服の魅力を知っている。
いや、正確には「感じている」。
でも言葉にできない。
それなら、考えてみよう。
今回は制服がなぜこんなにも魅力的なのか、とことん考えてみたい。
三十三歳のおっさんが。
やっぱり少し気持ち悪い。
そもそも制服って、いつからあるんだろう
まずは歴史から見てみよう。
そもそも、日本の学校制服はいつからあるのだろう。
調べてみると、学習院では1879年、明治12年に男子の制服が定められている。海軍士官型の制服で、日本の学校で制服を定めた最初の例とされている。
1879年。
古い。
僕が思っていたより、だいぶ先輩だった。
制服について偉そうに考察しようとしている僕より、百年以上先輩である。
しかも興味深いのは、ただ「格好いい服を作ろう」と始まったわけではないことだ。
当時、服装の華やかさを競う風潮を戒めたり、家庭の経済格差が見た目に表れにくくしたりする意図があったとされている。
つまり、制服には最初から「揃える」という役割があった。
服による差を小さくする。
みんなが同じものを着る。
今では当たり前すぎて考えたこともなかったけれど、なかなか大胆な仕組みだ。
そして女子の服装も変わっていく。
明治期には和服や袴が使われ、やがて洋装の制服が広がっていった。
現在の僕たちが「学校の制服」と聞いて思い浮かべやすいセーラー服にも、ちゃんと歴史がある。
福岡女学院では、1921年にセーラー服を制服として制定した。
当時、女学生は着物や袴、下駄といった格好が一般的だったという。
しかし、それでは運動しづらい。
そこで当時の校長エリザベス・リーが中心となって、新しい制服づくりが進められた。
これが面白い。
なんと、何度も手直しが行われている。
八回。
制服に八回。
僕なら三回目くらいで、
「もうこれでよくない?」
と言ってしまいそうだ。
でも、よくなかったのだろう。
さらに、スカートのプリーツも動きやすくするためにつけられたという。
ここで僕は少し驚いた。
プリーツ。
僕は完全にデザインの話だと思っていた。
制服を制服らしく見せる、あの折り目。
あれにも機能的な理由があった。
動きやすくするため。
つまり、
機能を求めた結果、可愛くなっている。
なんだそれ。
強い。
僕は最初に制服を見て、
「なんだ、あの完成された服は」
と思った。
どうやら、本当に考えられていたらしい。
もちろん、制服の歴史は学校によって違うし、その後も時代に合わせて形や着こなしは変化してきた。
スカート丈も変わる。
靴下も変わる。
ネクタイやリボンの扱い方も変わる。
男子だって詰襟をきっちり着る時代もあれば、着崩すことが格好いい時代もあっただろう。
流行は制服の中にも入ってくる。
なのに不思議なのは、制服そのものが消えないことだ。
百年前の私服をそのまま着て街を歩けば、かなり目立つ。
でも制服は、少しずつ姿を変えながら、今も「制服」として成立している。
流行に参加しているくせに、流行に飲み込まれない。
お前、やっぱり完成しているんじゃないか。
では、デザインを解剖してみよう
歴史は分かった。
次は、制服そのものを見てみる。
制服を解剖する。
安心してほしい。
服の話だ。
まずブレザー。
シャツ。
ネクタイ、あるいはリボン。
プリーツスカート。
ローファー。
セーラー服なら、大きな襟とライン。胸元にはスカーフやリボン。
一つひとつを見ると、そこまで珍しいものではない。
シャツなんて僕も着る。
ブレザーだって大人が着てもおかしくない。
ローファーだって普通に売っている。
ネクタイなんて、世の中の会社員が毎日のように締めている。
なのに、それらが組み合わさった瞬間、
「制服だ」
となる。
すごい。
特に首元は強い。
白いシャツだけなら、かなりシンプルだ。
そこにネクタイやリボンが一つ入る。
それだけで一気に制服らしくなる。
色も面白い。
紺。黒。グレー。白。
基本的には落ち着いた色が多い。
そこにリボンやネクタイ、チェック柄などが入る。
私服なら、もっと色を入れたり、アクセサリーを足したり、柄を増やしたりできる。
でも制服は、むしろ少ない。
必要なものだけが置かれている感じがする。
制服って、足し算ではなく、引き算で完成しているんじゃないだろうか。
全部が主張しているわけではない。
シャツがいて、ジャケットがいて、首元に少し色があって、下にプリーツやスラックスがある。
全員がセンターを取りに来ない。
バンドみたいだ。
ボーカルしかいないバンドはうるさい。
ベースもいる。
ドラムもいる。
ギターもいる。
制服も同じなのかもしれない。
いや、制服をバンドにする必要はなかった。
でも、それくらい役割分担ができている。
何か一つ足したら、逆に邪魔になりそうな完成度がある。
完成された料理に勝手にマヨネーズをかけるような怖さだ。
制服に巨大な金のネックレスを足してみよう。
急に違う。
肩に羽根をつけてみよう。
もっと違う。
背中に「青春」と刺繍してみよう。
もう言わなくていい。
制服は、青春を自分で名乗らないからいいのだ。
でも、本当にデザインが可愛いからなのか
ここで一度、答えが出たような気がした。
制服が可愛いのは、デザインが完成されているから。
なるほど。
終わり。
……本当に?
少し待ってほしい。
完成されたデザインなら、誰が着ても可愛くなるはずではないか。
服そのものに魅力があるなら、着る人が変わっても魅力は変わらないはずだ。
では、僕が着てみよう。
三十三歳。
ブレザーを着る。
シャツを着る。
ネクタイを締める。
学校指定の鞄まで持ってみよう。
鏡の前に立つ。
たぶん、可愛くはならない。
制服が悪いわけではない。
僕が悪い。
いや、僕が悪いというのも少し悲しい。
別に悪いことはしていない。
ただ制服を着ただけなのに。
でも、間違いなく何かがおかしい。
サイズが合っていたとしても、おかしい。
新品の制服を僕の体型に合わせて完璧に仕立ててもらったとしても、たぶん違和感は消えない。
なぜだ。
デザインは同じなのに。
さっきまで僕は、
「なんだ、あの完成された服は」
と言っていた。
完成されているなら、僕が着ても完成するはずだ。
でも、しない。
ということは、制服の魅力は**「服そのもの」だけにはない。**
ここで話が少し変わってきた。
学校ごとに違うのも面白い
よく考えれば、制服は学校ごとに違う。
これも変な話だ。
制服とは、みんなを同じ格好にするための服だ。
なのに、学校が変われば全然違う。
ブレザーの学校。
セーラー服の学校。
詰襟の学校。
リボンの学校。
ネクタイの学校。
チェック柄の学校。
無地の学校。
紺色が強い学校もあれば、グレーを使う学校もある。
地域によっては、制服を見ただけで、
「あ、あの学校だ」
と分かることすらある。
つまり制服は、個人の服であると同時に、学校を表す服でもある。
考えてみればすごい。
しかも、自分で選んだ服ではない。
学校側が決めた服だ。
なのに何年も着ていると、
「うちの制服」
になる。
卒業して何年も経ってから母校の制服が変わったと聞けば、
「え、変わったん?」
と少し気になる。
もう着ない。
今後も着る予定はない。
それでも気になる。
自分でデザインしたわけでもない。
自分で選んだわけでもない。
それなのに、いつの間にか「自分たちの服」になっている。
制服って、変な服だ。
同じ服なのに、なぜ個性を感じるのか
さらに変なのは、同じ学校なら基本的に同じ制服を着ているのに、全員が同じには見えないことだ。
むしろ、その人らしさが出る。
髪型。
鞄。
靴。
ネクタイの締め方。
リボンの位置。
袖のまくり方。
ジャケットの着方。
サイズ感。
ほんの少しの違いなのに、その人らしく見える。
これは不思議だ。
制服は、個性を消す服だと思っていた。
でも、もしかすると逆なのかもしれない。
同じ服を着ているからこそ、小さな違いが目立つ。
白い紙に黒い点を一つ置けば、その点はよく見える。
私服なら服そのものの情報量が多い。
色も違う。
形も違う。
ブランドも違う。
好みも違う。
でも制服は土台が同じだ。
だから、その上に出てくる小さな違いが見えやすい。
個性を消すための服なのに、個性が浮かび上がる。
面白い。
では、制服の魅力はそこなのだろうか。
「みんな同じなのに、その人らしさが見えるから」
なるほど。
ありそうだ。
……でも、これも違う気がする。
ハンガーに掛かった新品の制服を見ても、
「よくできたデザインだな」
とは思う。
まだ誰も着ていない。
個性なんて一ミリも染み込んでいない。
それでも制服らしい魅力はある。
また行き止まりである。
青春だから?
では、青春だからだろうか。
制服と聞いて思い浮かべるもの。
教室。
放課後。
部活。
文化祭。
体育祭。
修学旅行。
帰り道。
友達。
恋。
卒業。
強い。
青春オールスターズである。
映画でも、ドラマでも、漫画でも、小説でも、制服は何度も青春の象徴として使われてきた。
桜の下に制服。
夕焼けの教室に制服。
自転車に制服。
駅のホームに制服。
もう強い。
背景まで味方につけてくる。
じゃあ答えはこれか。
制服が魅力的なのは、青春の象徴だから。
……でも待て。
現役の学生は毎朝、制服を着ながら、
「ああ、青春だ」
と思っているのだろうか。
たぶん思っていない。
眠い。
一時間目から数学。
今日小テストあったっけ。
体育だるい。
雨降ってる。
靴下濡れた。
そんなもんだろう。
毎日着る本人たちにとって、制服はかなり日常的な服でもある。
むしろ、
「私服で行きたい」
と思っている人だっているだろう。
夏は暑い。
冬は寒い。
ネクタイが面倒。
校則で着方を注意される。
青春どころではない。
ここが面白い。
外から見ると「青春の象徴」なのに、中にいる本人にとっては「いつもの服」でもある。
もしかすると青春って、そういうものなのかもしれない。
青春の真ん中にいるとき、人は毎日、
「今、青春してるなあ」
なんて確認しながら生きていない。
普通に眠い。
普通に腹が減る。
普通に学校へ行きたくない日もある。
でも、あとから振り返ると、そのどうでもよかった日々まで青春になっている。
制服も同じなのかもしれない。
着ているときは、ただの制服。
脱いでから、制服になる。
変な言い方だけれど、そんな気がする。
制服は「期限付きの服」なのか
ここで、もう一つ気づく。
制服には期限がある。
もちろん卒業後も物として持っておくことはできる。
クローゼットにしまっておくこともできる。
でも「学校へ着ていく服」としての役割には、明確な終わりがある。
入学して。
毎日着て。
卒業したら終わる。
最初から、脱ぐ日が決まっている服なのだ。
これは普通の服とはかなり違う。
お気に入りのTシャツなら、着られる限り着ればいい。
十年着てもいい。
ジャケットだって、似合うなら何歳まで着てもいい。
でも学校の制服には、
「この期間に着る」
という時間が最初からくっついている。
期限付きの服。
だから特別なのだろうか。
もう着られなくなるから、魅力的に見える?
希少性?
ありそうだ。
でも、期限があるものなら何でも魅力的になるわけではない。
賞味期限が明日の豆腐を見て、
「なんて青春なんだ」
とは思わない。
期限だけでは足りない。
また違う。
でも、この「期限」は何か大事な気がする。
制服には、時間がくっついている。
ただ布を着ているのではなく、
「学生である今」
を一緒に着ている。
だから僕が着ると違和感があるのだろうか。
僕が制服を着ても、これから教室へ向かうわけではない。
放課後に部活へ行くわけでもない。
文化祭の準備をするわけでもない。
明日のテスト範囲を友達に聞くわけでもない。
三十三歳のおっさんが、制服を着ているだけである。
服は同じ。
でも、その服と一緒に流れているはずの時間が違う。
なるほど。
少し近づいた気がする。
思い出が染み込んでいる
そして、ここで僕は一つ気づいた。
制服って、ほぼ毎日同じものを着る。
当たり前のことだけれど、よく考えるとすごい。
入学式の日も制服。
初めて教室に入った日も制服。
友達ができた日も制服。
先生に怒られた日も制服。
テストでいい点を取った日も制服。
最悪な点を取った日も制服。
部活で勝った日も制服。
負けた日も制服。
好きな人と話せた日も制服。
何もなかった日も制服。
雨の日も制服。
暑い日も制服。
寒い日も制服。
文化祭も制服。
修学旅行も制服。
そして卒業式も制服。
ずっといる。
制服、ずっといる。
学生生活の写真を何十枚並べても、かなりの確率で同じ服が写っている。
私服なら記憶は分散する。
旅行で着た服。
誕生日に着た服。
友達と遊んだ日の服。
でも制服は違う。
何百日もの記憶が、一つの服に集まっていく。
そうか。
制服には、思い出が染み込んでいるのだ。
もちろん、本当に布に記憶が染み込むわけではない。
でも、その制服を見れば思い出す。
教室の匂い。
チャイム。
帰り道。
友達の声。
部活。
好きだった人。
嫌いだった先生。
どうでもよかった授業。
購買で買ったパン。
雨の日の電車。
遅刻しそうで走った朝。
そういうものが、全部その服の向こう側にある。
だから制服は、ただの服ではなくなっていく。
新品の制服は、まだ完成していない
ここで、最初の疑問に戻ってみる。
僕は制服を見て、
「なんだ、あの完成された服は」
と思った。
確かに、デザインとしては完成されている。
色も形も考えられている。
長い歴史の中で改良されてきた。
機能性もある。
でも、もしかすると制服は、買った時点ではまだ完全には完成していないのかもしれない。
入学前。
新品の制服。
まだ少し硬い。
袖を通しても、自分の服という感じがしない。
鏡を見て、
「おお、高校生っぽい」
なんて思う。
制服の方が先に高校生になっていて、自分があとから追いついていくような感じすらある。
でも毎日着る。
少しずつ馴染む。
朝、何も考えずに着るようになる。
ネクタイを締めるのも速くなる。
ジャケットを雑に扱うようになる。
鞄を持って学校へ行く。
笑う。
悩む。
怒る。
眠る。
恋をする。
失敗する。
どうでもいい一日を大量に過ごす。
そうやって、その人の時間が制服に重なっていく。
そして卒業する。
その日、初めて制服は完成するのかもしれない。
制服は、買った日に完成する服ではない。
卒業する日に完成する服なのだ。
これ、かなり不思議だ。
普通の服は、店に並んでいる時点で完成品だ。
買ったら終わり。
もちろん着ることで愛着は生まれる。
でも制服ほど、一つの時期を丸ごと背負う服はなかなかない。
制服には、青春まで纏わされる。
いや、「纏わされる」というより、着ているうちに勝手に纏っていくのかもしれない。
最初はただの布だった。
でも三年間、学校生活の中心に居続ける。
その結果、教室も、放課後も、部活も、恋も、退屈も、全部くっついてくる。
制服そのものを作った人は、そこまでデザインしていない。
プリーツの幅は計算できる。
襟の形も計算できる。
色も決められる。
生地も選べる。
でも、その制服を着た人が誰と出会い、何に笑い、何に傷つき、どんな帰り道を歩くかまでは計算できない。
そこだけは、着る人に委ねられている。
だから制服は面白い。
完成されたデザインなのに、最後の仕上げだけが終わっていない。
その最後の仕上げをするのが、着ている本人なのだ。
みんな同じなのに、最後には世界に一つになる
そう考えると、さっきの「同じ制服なのに個性を感じる」という疑問にも、別の答えが見えてくる。
入学したとき、制服はみんな同じだ。
同じ学校。
同じ色。
同じ形。
同じ校章。
同じ店で買った人だっているだろう。
新品の状態なら、本当に似ている。
でも、そこから過ごす時間は違う。
ある人は運動部に入る。
ある人は文化部に入る。
ある人は帰宅部になる。
ある人は恋をする。
ある人は失恋する。
ある人は友達と毎日笑う。
ある人は一人で本を読む。
ある人は学校が大好きになる。
ある人は早く卒業したいと思う。
同じ教室にいたとしても、見ていた景色は違う。
同じ三年間なんて、一つもない。
その違う時間が、同じ制服に染み込んでいく。
だったら卒業する頃には、もう同じ制服ではない。
見た目は同じでも、その服が背負っているものが違う。
世界に一つだ。
いや、「世界に一つ」という言い方より、もっとしっくりくる言葉がある。
その人にしかない。
その人にしか着られない制服。
制服は誰でも買える。
同じ学校なら、同じ制服を買える。
でも、
「その人の制服」は、その人にしか作れない。
これは面白い。
制服は、同じになるために着る服なのに、最後には唯一無二になる。
最初は同じ服を着る。
でも三年間が終わる頃には、そこに誰よりも個人的な記憶が染み込んでいる。
なんだ、この矛盾した服は。
やっぱり強い。
じゃあ、思い出があるから魅力的なのか
ここまで来ると、
「分かった。制服が魅力的なのは思い出があるからだ」
と言いたくなる。
でも、また僕の中の面倒くさい僕が出てくる。
本当に?
じゃあ、自分が通っていなかった学校の制服にも魅力を感じるのはなぜだ。
そこに僕の思い出はない。
一日も通っていない。
教室も知らない。
先生も知らない。
校歌も知らない。
購買のパンが美味しいのかも知らない。
なのに制服を見て、
「いい制服だな」
と思うことがある。
思い出だけでは説明できない。
また戻ってきた。
でも、ここまで考えたからこそ、少し分かる。
自分の思い出が染み込んでいなくても、
「そこに誰かの時間がある」
ことを僕たちは知っているのかもしれない。
制服を見れば、学校生活を連想する。
これは自分の経験だけではない。
映画やドラマや漫画や小説でも、僕たちは何度も制服姿の物語を見てきた。
放課後。
部活。
恋。
友情。
進路。
卒業。
制服という服には、長い時間をかけて「学生生活」という物語そのものが重なっている。
だから知らない学校の制服にも、何かを感じる。
その制服を着ている人の具体的な思い出を知らなくても、
「この服にも、何百日もの日常があるんだろうな」
と、どこかで知っている。
もちろん、そんなことを毎回頭で考えているわけではない。
街で制服を見て、
「なるほど、この布地には有限性と記憶の蓄積が……」
なんて考えていたら怖い。
僕でも逃げる。
でも、意識していなくても、制服という服にそういうイメージが積み重なっているのではないだろうか。
だから僕が着ると違和感がある
ここで、三十三歳の僕に戻ろう。
かわいそうに。
さっきから制服を着せられたり脱がされたりしている。
僕が制服を着ると、なぜ違和感があるのか。
年齢。
もちろん、それもある。
学校制服は基本的に学生が着るものだから、そこから外れれば違和感が生まれる。
でも今回ずっと考えてきて、それだけではない気がしてきた。
僕が制服を着ても、その制服には「今の僕の学校生活」がない。
これから教室へ行かない。
放課後もない。
部活もない。
文化祭もない。
卒業式もない。
そこに続いていくはずの時間がない。
服だけを借りている。
だから違和感があるのかもしれない。
制服は着られる。
でも、その時間までは着られない。
これだ。
たぶん僕は、制服を「服」だけだと思っていた。
だから完成されたデザインなら、誰が着ても同じように魅力的になるはずだと思った。
でも違った。
制服は、服だけでは完成していない。
着る人がいて。
その人の学校生活があって。
その時間が重なって。
思い出が染み込んで。
初めて「その人の制服」になる。
僕が今、どこかの学校の制服を新品で買って着ても、それは僕の制服にはならない。
ただ、僕が制服を着ているだけだ。
この差は大きい。
制服は青春まで纏っている
ここまで考えて、ようやく最初の疑問に戻れる。
制服って、なんであんなに可愛いんだろう。
最初、僕はデザインだと思った。
実際、デザインは大きいと思う。
制服そのものが格好よく、美しく、可愛く作られている。
長い歴史の中で形が整えられ、機能性まで考えられている。
でも、それだけではない。
制服は、青春まで纏っている。
教室。
放課後。
部活。
文化祭。
修学旅行。
帰り道。
友達。
恋。
進路。
卒業。
そして、そんな大きな出来事だけではない。
眠かった朝。
つまらなかった授業。
購買へ走った昼休み。
くだらないことで笑った休み時間。
雨で濡れた靴下。
忘れ物をした日。
先生に怒られた日。
何も起きなかった火曜日。
そういう「青春」と呼ぶには地味すぎる時間まで、全部そこにある。
むしろ、青春ってそういうものなのかもしれない。
特別な出来事だけが青春ではない。
あとから思い返したとき、どうでもよかった一日まで少し眩しく見える。
制服は、その全部に付き合っている。
毎日、同じ顔をして。
何も言わず。
ずっとそこにいる。
だから思い出が染み込む。
完成されたデザインに、青春を纏い、その人だけの思い出が染み込んでいく。
そりゃ、ただの服が勝てるわけがない。
制服に吸い込まれる理由
僕は最初、「制服は可愛い」と思っていた。
もちろん、それは今も変わらない。
でも、ここまで考えてみると、僕が感じていたのは「可愛い」だけではなかったのかもしれない。
制服には、妙な引力がある。
なぜか目を引く。
なぜか物語を感じる。
なぜか、その向こう側を想像してしまう。
それはきっと、制服が服だけで終わっていないからだ。
完成されたデザインがある。
そこに青春が重なる。
さらに一人ひとりの思い出が染み込んでいく。
そして最後には、その人にしかない、その人にしか着られない制服になる。
新品の制服は、同じものを何着も作れる。
でも三年間を過ごした制服は、もうコピーできない。
同じ汚れをつければいいわけではない。
同じシワを作ればいいわけでもない。
必要なのは、その人がそこで過ごした時間だからだ。
時間はコピーできない。
思い出もコピーできない。
だから、その制服もコピーできない。
世界に一つ。
その人だけの制服。
考えてみれば、すごく贅沢な服だ。
高級ブランドだからではない。
生地が特別だからでもない。
値段の話でもない。
その人の数年間が丸ごと入っているからだ。
そんな服、なかなかない。
卒業する日に完成する
入学式の日。
新品の制服に袖を通す。
まだ自分のものではないような気がする。
少し硬い。
少し恥ずかしい。
鏡に映る自分も、どこか借り物っぽい。
でも、そこから毎日を過ごす。
一年。
二年。
三年。
気づけば制服を着ることなんて、何とも思わなくなる。
朝起きて、歯を磨いて、制服を着る。
ただの日常になる。
そして、卒業式。
その日を境に、毎日着ていた服を着なくなる。
昨日まで日常だったものが、突然、思い出になる。
不思議だ。
制服自体は何も変わっていない。
昨日と同じ服だ。
色も形も同じ。
でも、意味が変わる。
「明日も着る服」から、
「もう毎日は着ない服」になる。
その瞬間、何百日分もの時間が一気に見えるようになるのかもしれない。
制服は、買った日に完成する服ではない。
卒業する日に完成する服なのだ。
デザイナーが形を作る。
学校が制服として決める。
店が販売する。
そして最後に、着る人が時間を入れる。
それでようやく完成する。
そう考えると、僕が最初に言った、
「なんだ、あの完成された服は」
という言葉は、半分正しくて、半分間違っていた。
確かに完成されたデザインだ。
でも、本当の意味ではまだ完成していない。
最後に完成させるのは、その制服を着る人なのだ。
制服って、なんであんなに可愛いんだろう
長かった。
制服一着について、ずいぶん考えてしまった。
歴史まで調べた。
デザインまで解剖した。
プリーツについて考えた。
統一感について考えた。
個性について考えた。
青春について考えた。
期限について考えた。
思い出について考えた。
途中、三十三歳の僕に制服まで着せた。
実際には着ていない。
安心してほしい。
そして、最初よりは少しだけ分かった気がする。
制服が魅力的なのは、何か一つの理由ではない。
完成されたデザイン。
そこに重なる青春。
そして、着ているうちに染み込んでいく、その人だけの思い出。
その三つが重なっている。
だから、同じ学校の制服を着ていても、最後には同じではなくなる。
その人にしかない。
その人にしか着られない制服になる。
僕が制服を着ても違和感があるのは、きっとそのせいだ。
服だけなら着られる。
同じサイズを買うこともできる。
同じネクタイを締めることもできる。
でも、その制服と一緒に過ごした時間までは着られない。
制服は、青春まで纏っている。
そして、その人の思い出まで纏っている。
だから魅力があるのだろう。
だから、吸い込まれるのだろう。
僕は制服そのものを見ているつもりだった。
でも、本当は違ったのかもしれない。
その向こうにある教室や、放課後や、帰り道や、もう戻れない時間まで一緒に見ていた。
制服って、なんであんなに可愛いんだろう。
たぶん僕が可愛いと思っていたのは、服だけではなかったのだ。
完成されたデザインに青春を纏い、その人だけの思い出が染み込んでいく。
みんな同じところから始まるのに、最後には、その人にしかない服になる。
制服は誰でも買える。
でも、その人の制服は、その人にしか作れない。
だからきっと、あんなにも魅力がある。
そして僕たちは、制服ではなく、
その向こうにある時間に、吸い込まれているのかもしれない。
