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キャンプファイヤーは何のためにする?意味や学べることを、大人になって考えた。

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幼稚園のとき、お泊まりで郊外学習みたいなものがあった。

正式に何という行事だったのかは、もう覚えていない。

お泊まり保育だったのかもしれないし、別の名前がついていたのかもしれない。

とにかく、いつもの幼稚園を離れて、みんなでどこかへ行って、一晩泊まった。

もうずいぶん昔のことなので、記憶はかなり曖昧だ。

何を持って行ったのか。

どこへ行ったのか。

先生が何を話していたのか。

ほとんど覚えていない。

でも、不思議なことに断片的な場面だけは残っている。

カレーを食べた。

たしか、みんなで食べた。

外だったのか、建物の中だったのか。

そこまでは覚えていない。

でも、カレーを食べたことは覚えている。

そして夜。

キャンプファイヤーをした。

大きな火をみんなで囲んだ。

歌も歌った。

「天まで届けー」

そんな感じの歌詞だった。

たぶん「燃えろよ燃えろ」だったと思う。

みんなで火を囲んで、大きな声で歌った。

ハンカチ落としもした。

なぜキャンプファイヤーを囲みながらハンカチを落としていたのかは分からない。

でも、やった。

誰かの後ろにこっそりハンカチを落とす。

気づいた人が立ち上がって追いかける。

逃げる。

みんなが笑う。

幼稚園児なので、それだけで楽しい。

そんな記憶がある。

そして最近、ふと思った。

なんでキャンプファイヤーをするんだろう。

目次

よく考えると不思議なキャンプファイヤー

キャンプファイヤーというものを、何の疑問も持たずに受け入れていた。

子どもの頃はそういうものだ。

先生が、

「今日はキャンプファイヤーをします」

と言えば、

「わーい」

となる。

「なぜですか?」

とはならない。

キャンプファイヤーをする日だから、キャンプファイヤーをする。

それで十分だった。

でも、大人になって改めて考えてみると、なかなか不思議な行事だ。

わざわざ大量の薪を組む。

火をつける。

かなり大きな炎にする。

その周りに子どもたちを集める。

そして歌う。

遊ぶ。

火を眺める。

最後には火を消す。

何をしているんだ。

焚き火なら分かる。

暖を取るため。

料理をするため。

明かりを得るため。

ちゃんと実用的な目的がある。

でも、キャンプファイヤーは少し違う。

少なくとも僕の記憶の中では、その火でカレーを煮込んだわけではない。

暖房として使っていたわけでもない。

火を囲むために、火を燃やしていた。

なんとも贅沢な火の使い方である。

しかも、その周りで歌っている。

「天まで届けー」

幼稚園児たちが炎に向かって叫んでいる。

今になって考えると、なかなかすごい光景だ。

一体、何を天まで届けようとしていたのだろう。

僕には分からない。

そこで、大人になった今、キャンプファイヤーにはどんな意味があるのかを考えてみることにした。

すると、思っていた以上にいろんなものが詰まっていた。

火は怖いということを、体で知る

まず単純に、火を知ること。

これは結構大きかったのかもしれない。

今の生活では、大きな炎を見る機会なんてほとんどない。

家の中で見る火といえば、ガスコンロくらいだろう。

それすらIHなら見ることがない。

ライターやろうそくの火は小さい。

でも、キャンプファイヤーは違う。

でかい。

熱い。

近づけば普通に怖い。

炎は一定の形をしていない。

風が吹けば傾く。

突然大きくなる。

薪が崩れる。

火の粉が飛ぶ。

煙も来る。

僕が幼稚園児の頃、そんなことまで考えていたとは思えない。

たぶん、

「でっかい火やなあ」

くらいだった。

でも、それで十分だったのかもしれない。

「火は危ないですよ」

と教室で言われるのと、目の前で大きな炎を見るのとでは全然違う。

近づけば熱い。

だから離れる。

風向きによって煙が来る。

だから避ける。

火の粉が飛んでくることもある。

危険というものを、知識ではなく体で覚える。

これも立派な学びだ。

火は怖い。でも、暖かい

火のおもしろいところは、怖いだけではないことだ。

暖かい。

綺麗だ。

ずっと見ていられる。

近づきすぎれば危険なのに、離れすぎると暖かさを感じられない。

だから自然と、ちょうどいい距離を探す。

これって考えてみると面白い。

危険だから全部遠ざけるのではない。

危険性を知ったうえで、適切な距離を取る。

僕たちは知らないうちに、そんなことを経験していたのかもしれない。

火は人間にとって、ずっと身近な存在だった。

暖を取る。

料理をする。

暗闇を照らす。

人間の暮らしは、長いあいだ火と一緒にあった。

僕たちはスイッチを押せば部屋が明るくなり、ボタンを押せば料理が温まり、エアコンをつければ暖かくなる。

だから普段は意識しない。

でもキャンプファイヤーの前に座ると、火が直接こちらを暖めてくれる。

電源コードもない。

リモコンもない。

ただ木が燃えている。

幼稚園児の僕は、そんなことを考えてはいなかった。

でも、体は覚えていたのかもしれない。

炎はずっと形を変えている

キャンプファイヤーを思い出していて、もう一つ気づいた。

炎って、ずっと動いている。

同じ形をしていない。

右へ揺れたと思ったら、左へ揺れる。

小さくなったと思ったら、急に大きくなる。

薪がパチッと鳴る。

火の粉が上へ飛ぶ。

煙が流れていく。

自然のものは、こちらの都合どおりには動かない。

学校や幼稚園という場所は、基本的に人間が作ったルールの中にある。

何時に始まる。

何時に終わる。

先生が話す。

みんなで座る。

順番を守る。

決められた時間にご飯を食べる。

かなり規則的だ。

でも、その真ん中にある炎だけは違う。

先生が、

「もう少し右に揺れてください」

と言っても聞いてくれない。

「次は三秒間止まってください」

と言っても止まらない。

火は勝手に燃える。

風も勝手に吹く。

煙も勝手にこちらへ来る。

「うわ、煙い!」

となって逃げる。

それでいい。

もしかするとキャンプファイヤーは、子どもが自然の「思いどおりにならなさ」に触れる時間でもあったのかもしれない。

ぼーっと火を見る時間

炎には、なぜか見続けてしまう不思議さがある。

テレビのように物語があるわけではない。

スマートフォンのように次々と情報が出てくるわけでもない。

文字もない。

通知も来ない。

ただ燃えている。

それなのに見てしまう。

パチパチと音がする。

炎が揺れる。

薪が崩れる。

また炎の形が変わる。

それだけだ。

でも、それがいい。

自然界にある不規則な揺らぎには、人間が心地よさを感じることがあると言われる。

難しいことは分からない。

でも、海の波をぼーっと見ていられるのと似ている気がする。

川の流れ。

木の葉が風に揺れる様子。

雨の音。

そして炎。

ずっと同じではない。

でも、めちゃくちゃでもない。

その間にある。

幼稚園児の僕が、

「これは自然界の不規則な揺らぎだ」

などと思っていたはずはない。

たぶん、

「火や」

くらいだ。

でも、子どもだからこそ、説明なんていらなかったのかもしれない。

ただ見る。

ただ聞く。

ただ感じる。

それも学ぶということなのだろう。

夜が暗いことを知る

キャンプファイヤーは、だいたい夜にする。

これも意味がある気がする。

普段の生活では、夜でも明るい。

街灯がある。

コンビニがある。

家の電気がある。

車のライトがある。

スマートフォンまで光っている。

本当の暗さを感じる機会は意外と少ない。

でも郊外へ行くと、夜はちゃんと暗い。

その暗闇の中に火がある。

だから火が余計に明るく見える。

暗いから、明るさが分かる。

寒いから、暖かさが分かる。

不便だから、便利さが分かる。

自然体験というのは、何か新しい知識を覚えるだけではないのかもしれない。

普段当たり前に存在しているものが、実は当たり前ではないと知る。

それも大切なことだ。

キャンプファイヤーは五感を使う

学校で何かを学ぶとき、基本的には目と耳を使う。

先生の話を聞く。

教科書を読む。

黒板を見る。

文字を書く。

もちろん、それも大切だ。

でもキャンプファイヤーは、もっと身体全体で経験する。

炎を見る。

薪が爆ぜる音を聞く。

煙の匂いを嗅ぐ。

火の熱を肌で感じる。

場合によっては煙が目に入って痛い。

「煙い!」

と言いながら場所を移動する。

こういう体験は、教科書にはできない。

「キャンプファイヤーの炎は熱いです」

と本に書いてあっても、

「そうなんだ」

で終わる。

実際に近くに座ると、

「熱っ」

になる。

この「熱っ」は強い。

知識ではなく記憶になる。

だから僕も、何十年も前の出来事なのに、キャンプファイヤーをしたことだけは覚えているのだろう。

なぜ、みんなで火を囲むのか

そして一番気になったのがこれだ。

なぜ一人で見るのではなく、みんなで火を囲むのか。

キャンプファイヤーは、基本的に輪になる。

中心に火がある。

その周りに人がいる。

これが面白い。

教室なら先生が前にいる。

子どもたちは先生の方を見る。

前と後ろがある。

でも、火を囲むと少し違う。

みんなが同じものを見る。

中心にいるのは先生ではない。

火だ。

火を中心にして、みんなが円になる。

そこには「一緒にいる」という感覚が生まれやすい。

同じ火を見る。

同じ熱を感じる。

同じ煙にむせる。

同じ歌を歌う。

同じ遊びをする。

同じ夜を過ごす。

キャンプファイヤーには、仲間意識や協調性を育てる意味もあるという。

なるほど。

幼稚園児だった僕は、知らないうちにそんなことを学んでいたらしい。

「天まで届け」とみんなで歌った

歌にも意味があったのだろう。

一人で歌うのではない。

みんなで歌う。

同じ歌詞。

同じメロディー。

同じタイミング。

上手いとか下手とか、そんなことはどうでもいい。

全員で声を出す。

それだけで、一体感が生まれる。

僕は何の歌を歌ったのか、完全には覚えていない。

でも、

「天まで届けー」

みたいなところだけは覚えている。

大きな炎を前にして、幼稚園児たちが空へ向かって歌っていた。

考えてみると、かなり原始的だ。

火を囲む。

歌う。

踊る。

遊ぶ。

人間はずっと昔から、似たようなことをしてきたのではないだろうか。

文明が発達して、生活が便利になっても、僕たちはキャンプへ行くと火を囲む。

そしてなぜか楽しい。

もしかすると、人間のかなり深いところに「火を囲むと落ち着く」という感覚が残っているのかもしれない。

ハンカチ落としにも意味があったのか

そしてハンカチ落とし。

これについても真面目に考えてみる。

みんなで輪になって座る。

一人がその外側を歩く。

誰かの後ろにハンカチを落とす。

気づいた人が追いかける。

逃げる。

座る。

たったそれだけ。

今やったら、何が面白いのか分からない。

でも幼稚園児には最高である。

誰の後ろに落とされるか分からない。

自分かもしれない。

隣の子かもしれない。

後ろが気になる。

落とされた。

走れ。

追いかけろ。

逃げろ。

笑う。

ゲームとして非常によくできている。

しかも全員が同じ輪の中にいる。

普段あまり遊ばない子もいるだろう。

仲のいい子もいる。

少し苦手な子もいる。

でも、その時間だけは全員で同じ遊びをする。

これも集団の中で人と関わる練習だったのかもしれない。

そう考えると、キャンプファイヤーの周りでハンカチ落としをしていたことにも意味があった。

僕はただ走っていただけだと思っていた。

先生たちは、ちゃんと考えていたのかもしれない。

「楽しかった」で終わってもいい

ここまでいろいろ考えてきた。

火の怖さ。

火の暖かさ。

自然の揺らぎ。

暗闇。

五感。

仲間意識。

協調性。

歌。

遊び。

共同体験。

キャンプファイヤーには、意外なくらいたくさんの意味がある。

でも、少し考えすぎている気もする。

幼稚園児に、

「今日のキャンプファイヤーを通じて何を学びましたか?」

と聞いたところで、

「火!」

くらいしか返ってこないだろう。

それでいいのだと思う。

子どもの体験というのは、その場ですぐに言葉にできなくてもいい。

「自然の素晴らしさを学びました」

なんて言えなくていい。

「仲間との絆が深まりました」

なんて言わなくていい。

楽しかった。

火がでかかった。

歌った。

走った。

カレーがうまかった。

それで十分だ。

大人になってから、

「あれって何だったんだろう」

と考える。

すると、あとから意味が見えてくる。

それも体験の面白さなのかもしれない。

教えられたことより、体験したことが残っている

僕は、あの日先生が何を話していたのか覚えていない。

キャンプファイヤーを始める前に、何か説明があったのかもしれない。

終わったあと、いい話をしてくれたのかもしれない。

覚えていない。

何という施設だったのかも覚えていない。

郊外学習の正式名称も覚えていない。

でも、

カレーを食べたこと。

大きな火を見たこと。

みんなで歌ったこと。

ハンカチ落としをしたこと。

これは覚えている。

不思議だ。

覚えてほしいと思って教えられたことは忘れている。

でも、ただ経験したことは残っている。

もしかすると、幼児期の学びとはそういうものなのかもしれない。

何かを暗記することだけが学びではない。

そのとき感じた熱さ。

暗さ。

匂い。

楽しさ。

誰かの笑い声。

そういうものが身体のどこかに残っていて、何十年も経ってから突然出てくる。

そして大人になった自分が、あとから意味を与える。

僕はこの記事を書くまで、キャンプファイヤーについて真面目に考えたことなんて一度もなかった。

でも考えてみると、あの夜にはいろんなものがあった。

自然を感じること。

火との距離を知ること。

仲間と同じ時間を過ごすこと。

一緒に声を出すこと。

一緒に笑うこと。

何より、普段とは違う場所で、普段とは違う夜を過ごすこと。

それだけでも、十分だったのだと思う。

そして翌朝、僕は床にいた

キャンプファイヤーを終えたあと、みんなで寝た。

たしかベッドだった。

慣れない場所。

親もいない。

幼稚園のみんなと一緒に寝る。

子どもにとっては、それだけでもかなり特別な夜だったと思う。

そして翌朝。

「あはははは!」

笑い声で目が覚めた。

なんだ。

何を笑っているんだ。

目を開ける。

何かがおかしい。

ベッドで寝たはずなのに、僕は床の上にいた。

「先生! こいつ落ちてた!」

また笑い声が起きた。

どうやら寝ている間に、ベッドから落ちたらしい。

しかも、そのまま起きなかったらしい。

僕は床で普通に寝続けていた。

みんなにめちゃくちゃ笑われた。

先生もいた。

僕もたぶん笑っていた。

今でも、その場面は覚えている。

キャンプファイヤーには、仲間意識を育てる意味があるという。

同じ火を囲む。

同じ歌を歌う。

同じ遊びをする。

一緒に笑う。

集団の中で過ごす。

僕もあの夜、みんなと一緒に火を囲んだ。

「天まで届け」と歌った。

ハンカチ落としをした。

きっと、集団の一員として過ごすことを学んだ。

そして、その翌朝。

僕は、集団から落ちていた。

なんだか、今の僕につながっているような気がする。

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