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寄せ書きほどいらないものはない

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寄せ書きほどいらないものはない。

いきなり人の善意を踏みにじるようなことを言って申し訳ない。

でも、いらない。

退職、異動、卒業。

人がどこかから去ろうとすると、どこからともなく一枚の色紙が現れる。

そして、みんなで寄ってたかって文字を書き始める。

「今までありがとうございました!」

「新天地でも頑張ってください!」

「また遊びに来てください!」

「お身体に気をつけて!」

なんだこれは。

社交辞令テンプレートのパレードではないか。

誰が誰に書いても、だいたい成立する。

田中さんが辞めても使える。

山本さんが辞めても使える。

おそらく僕が辞めても使える。

名前だけ変えれば、永久に使い回せる。

しかも最後には、だいたい花までついてくる。

なぜだ。

僕は会社を辞めるだけである。

これから戦地へ向かうわけでも、二度と日本へ帰ってこないわけでもない。

普通に電車に乗って帰る。

それなのに、色紙と花束を持たされる。

なぜ退職した瞬間に荷物が増えるのだ。

今日は、そんな寄せ書きについて考えてみたい。

考えれば考えるほど、やっぱりいらなかった。

目次

書く側も地獄である

僕は寄せ書きをもらうのが苦手だが、書くのも苦手だ。

ある日、職場で突然、色紙を渡される。

「〇〇さん辞めるから、一言お願いしまーす」

困る。

〇〇さんとは、ほとんど喋ったことがない。

向こうも僕のことをよく知らない。

僕が昨日の晩ご飯に何を食べたか知らないだろうし、僕も〇〇さんが犬派なのか猫派なのか知らない。

もしかしたら犬も猫も嫌いかもしれない。

その程度の関係である。

それなのに突然、別れを惜しむ文章を書けと言われる。

これはなかなか難しい。

何を書けばいい。

「今までありがとうございました!」

何を?

「一緒に働けて楽しかったです!」

一緒に働った記憶が薄い。

「新天地でも頑張ってください!」

ついに未来へ丸投げした。

仕方がない。

とりあえず、他の人が何を書いているのか見てみる。

しまった。

「今までありがとうございました」は、もういる。

「新天地でも頑張ってください」もいる。

「お世話になりました」も取られている。

「また会いましょう」まで使用済みだ。

寄せ書きは、後半になればなるほど難易度が上がる。

主要な社交辞令を先人たちに全部奪われるからだ。

残された小さなスペースを前に、僕は考える。

そして、ついに書く。

「お身体に気をつけてください」

健康しか残っていなかった。

なぜ関係のない人間まで巻き込むのだ

そもそも、寄せ書きはなぜ全員参加なのだろう。

仲の良かった人が書く。

わかる。

お世話になった人が書く。

わかる。

どうしても伝えたいことがある人が書く。

素晴らしい。

しかし、ほとんど喋ったことのない人間まで巻き込む必要があるのだろうか。

「〇〇さん辞めるから、これ書いてください」

いや、僕と〇〇さんの会話時間を全部足しても四分くらいである。

エレベーターで「お疲れさまです」と言った時間まで含めて四分だ。

そんな僕に一体何を書けというのか。

無理やり言葉をひねり出し、

「短い間でしたが、ありがとうございました!」

と書く。

短い。

確かに短い。

関係性そのものが短い。

そして受け取った〇〇さんも、僕の文章を見て、

「……誰だっけ」

となるかもしれない。

誰も得していない。

関係性がないなら、何も書かない。

それが一番誠実ではないだろうか。

伝えたい人だけが伝えればいい。

人の気持ちまで全員参加にする必要はない。

もらったら最後、捨てられない

書く側も大変だが、問題はここからである。

寄せ書きをもらう。

いらない。

しかし、捨てられない。

これが恐ろしい。

普通のいらない物なら捨てればいい。

壊れた傘。

穴の空いた靴下。

何に使うのかわからないケーブル。

いらなければ捨てる。

簡単な話である。

ところが寄せ書きだけは違う。

ゴミ箱の前まで持っていった瞬間、急にこちらの良心を試してくる。

「本当に捨てるんですか?」

誰だ。

「みんな、あなたのために書いてくれたんですよ?」

やめろ。

「忙しい仕事の合間を縫って、一人ひとりが心を込めて……」

やめてくれ。

頼んだ覚えはない。

こちらはいらないだけなのだ。

書いてくれた人たちが嫌いなわけではない。

思い出を消したいわけでもない。

ただ、この色紙がいらないだけなのである。

なのに捨てた瞬間、まるで人の気持ちまでゴミ箱に放り込んだような気分にさせられる。

いらない物を渡され、そのうえ、

「捨てたら薄情者」

という呪いまでかけられる。

恐ろしい。

寄せ書きは贈り物ではない。

ただの呪縛だ。

写真を貼るな

さらに恐ろしい寄せ書きがある。

写真付きである。

やめろ。

文字だけなら、まだいい。

いつか僕も鬼になれるかもしれない。

「新天地でも頑張ってください!」

知らん。

「また会いましょう!」

会いたくなったら会おう。

そう自分に言い聞かせて、ゴミ箱へ入れられる日が来るかもしれない。

しかし、写真が貼ってある。

もう終わりだ。

顔がある。

みんな笑っている。

僕まで笑っている。

やめろ。証拠を残すな。

捨てようとするたび、写真の中の全員と目が合うではないか。

「捨てるんですか?」

違う。

君たちを捨てたいわけではない。

色紙を捨てたいだけなんだ。

しかし、写真が一枚貼られた瞬間、色紙を捨てる行為が人間関係そのものを捨てる行為に変換される。

卑怯である。

何を可愛くデコレーションしてくれてんねん

しかも腹が立つことに、寄せ書きは妙にかわいい。

色とりどりのペン。

星のシール。

ハート。

マスキングテープ。

小さな花。

「THANK YOU!」

僕の名前までカラフルな文字で囲まれている。

何を可愛くデコレーションしてくれてんねん。

シンプルな白い色紙なら、まだ捨てられたかもしれない。

しかし、明らかに時間をかけて作っている。

そうなると今度は、

「これ、作るの大変だっただろうな」

という新しい感情まで発生する。

また呪いが一つ増えた。

手間をかけるな。

写真を貼るな。

僕の名前の周りに花を描くな。

捨てにくさを強化するな。

寄せ書きというものは、手間をかければかけるほど価値が上がるのではない。

処分難易度が上がるのである。

普通の寄せ書き。

写真付き寄せ書き。

写真付き、手作りデコレーション寄せ書き。

順調に呪物として強化されている。

善意100%で作られているから、さらにたちが悪い。

誰にも悪意がない。

だから逃げ場もない。

そして花がやってくる

寄せ書きだけなら、まだ耐えられる。

しかし、送別という文化はそんなに甘くない。

最後に花がやってくる。

「今までありがとうございました!」

拍手。

寄せ書き、ドン。

花束、ドン。

待ってくれ。

荷物を増やすな。

今日は退職日である。

僕は仕事から解放される日なのだ。

それなのに突然、巨大な植物を渡される。

しかも生きている。

電車で花束を抱えて帰る。

ちょっと恥ずかしい。

家に着く。

花瓶がない。

どうする。

とりあえず家にある容器を探す。

水を入れる。

花を生ける。

翌日も水を見る。

数日後、元気がなくなってくる。

そして最終的に枯れる。

捨てる。

仕事が増えているではないか。

退職した人間に仕事を与えるな。

しかも寄せ書きと違って、花には寿命がある。

寄せ書きは捨てられないという永続型の呪い。

花は数日間世話をさせ、最後には自分の手で処分させる時限式の呪い。

送別会というものは、よくできている。

呪術体系が完成している。

なぜ辞める人間に渡すのだ

ここまで考えて、そもそもの疑問にぶつかった。

なぜ、辞める人間にこんなものを渡すのだろう。

辞めるということは、その場所から離れるということである。

もちろん会社を辞めるからといって、そこで働く人まで嫌いになったわけではない。

好きな人だっているだろう。

世話になった人もいる。

楽しかった思い出もある。

でも、気持ちはもう次へ向かい始めている。

そんな人間に、

「はい! みんなとの思い出を一枚に凝縮しました!」

と渡してくる。

なぜ去る人間の足首に、思い出という重りをつけるのだ。

こっちは身軽になって帰りたいのである。

寄せ書きというものは、少しだけ、

離婚した日にラブレターを渡すようなものではないか。

遅い。

それなら、もっと前に言ってくれ。

「今まで助けてもらいました」

働いているときに言ってくれ。

「一緒に働けて楽しかったです」

一緒に働いているときに言ってくれ。

「あなたの明るさに救われました」

それは、ぜひその瞬間に言ってくれ。

なぜ人は、いなくなると決まった瞬間に感謝をまとめて納品するのだろう。

本当に伝えたいなら手紙を書けばいい

別に僕は、感謝を伝えるなと言っているわけではない。

むしろ逆だ。

本当に伝えたいことがあるなら、伝えればいい。

個別で手紙を書けばいい。

「あのとき助けてもらったの、本当に嬉しかった」

「あの日に言ってくれた言葉を、今でも覚えている」

「実は一緒に働けて楽しかった」

そういう言葉なら嬉しい。

その人と自分にしかわからない言葉だからだ。

手紙じゃなくてもいい。

直接言えばいい。

LINEでもいい。

なんなら帰り際に、

「元気でな」

だけでもいい。

そこに本当の気持ちがあるなら、それで十分だと思う。

なのに寄せ書きになると、突然みんなから言葉を徴収し始める。

一人一コメント。

全員参加。

親しかった人も。

そうでもなかった人も。

昨日初めて名前を知った人も。

全員が同じ色紙に何かを書く。

その結果、

「ありがとうございました!」

「ありがとうございました!」

「ありがとうございました!」

ありがとうの大渋滞である。

善意というものは、自発的だから嬉しいのではないだろうか。

感謝だって同じだ。

気持ちを制度化した瞬間、それは義務になる。

本当に伝えたい人だけが、伝えればいい。

何もない人は、普通に、

「お疲れさまでした」

で送り出せばいい。

それで冷たいとは思わない。

むしろ、その方がずっと誠実だと思う。

「いつか見返す日が来るよ」は本当か

寄せ書きを擁護するとき、こんな言葉を聞く。

「いつか見返したら懐かしいよ」

いつだ。

僕はこれまでの人生で一度も、

「今日は天気もいいし、昔の職場の寄せ書きでも読むか」

と思ったことがない。

たぶん明日も思わない。

来週も思わない。

十年後も怪しい。

そもそも寄せ書きを読み返すとは、どんな時間なのだ。

棚の奥から取り出す。

埃を払う。

開く。

「新天地でも頑張ってください!」

十年後の僕。

「うん。」

次。

「お身体に気をつけて!」

十年後の僕。

「ありがとう。今のところ元気です。」

何なんだ、この時間は。

もちろん昔の職場を懐かしく思う日はあるかもしれない。

一緒に働いた人を思い出すこともあるだろう。

でも、思い出と、思い出が印刷された物体は別物だ。

人は色紙がなくても思い出せる。

会いたい人がいるなら、会えばいい。

連絡したいなら、連絡すればいい。

思い出を残すことと、思い出を物として保管することは同じではない。

それでも僕も「今までありがとう」と書く

ここまで偉そうに寄せ書きを批判してきた。

社交辞令だ。

全員参加にするな。

気持ちを強制するな。

伝えたいなら個人的に伝えろ。

我ながら立派なことを言っている。

しかし、ここで認めなければならない。

僕も寄せ書きを渡されたら書く。

「〇〇さんに一言お願いします」

色紙を渡される。

断る勇気はない。

周りを見る。

みんな書いている。

僕もペンを持つ。

そして、しばらく考える。

何を書こう。

悩む。

悩む。

そして書く。

「今までありがとう」

お前もか。

散々馬鹿にしていた社交辞令テンプレートのパレード。

気づけば僕も、その先頭を歩いている。

恐ろしい。

寄せ書きの呪いは、もらった人間だけにかかるものではなかった。

書く側にも、しっかり感染していたのである。

もう、この文化はよそう

だから、もうやめよう。

寄せ書きという文化は、そろそろ終わりにしてもいいのではないだろうか。

書く側は困る。

もらう側は捨てられない。

色紙を買う金もかかる。

回して集める時間もかかる。

誰が書いていないのか確認する人まで必要になる。

かわいくデコレーションすれば、さらに時間がかかる。

写真を貼れば、処分難易度が上がる。

そして最後には花までついてくる。

誰が得しているのだ。

感謝しているなら、普段から伝えればいい。

本当に伝えたいことがあるなら、個別で伝えればいい。

何もなければ、

「お疲れさまでした」

それでいい。

僕がいつか会社を辞めるときも、何もいらない。

寄せ書きもいらない。

花もいらない。

写真も貼らないでほしい。

僕の名前をハートで囲む必要もない。

普通に、

「お疲れさまでした」

と言って帰らせてほしい。

それが一番ありがたい。

それでも寄せ書きを渡されたら

とはいえ、こんな文章を書いたところで、寄せ書き文化が明日突然消滅するとは思えない。

僕が退職する日にも、おそらく誰かがやってくる。

「今までありがとうございました!」

拍手が起きる。

花束が出てくる。

そして、かわいくデコレーションされた寄せ書きを渡される。

見る。

写真まで貼ってある。

最悪だ。

捨てられない。

どうしよう。

持って帰りたくない。

でも、その場でゴミ箱に入れるわけにもいかない。

さすがに僕にも人の心はある。

困った。

どうしよう。

…………。

そのとき、僕は閃いた。

ロッカーに置いて帰ろう。

完璧である。

僕は捨てていない。

ただ、持って帰らなかっただけだ。

寄せ書きをもらった場所は会社である。

ならば会社に置いておく。

何もおかしくない。

最後の仕事を終える。

制服を脱ぐ。

荷物をまとめる。

ロッカーの中に、寄せ書きをそっと置く。

花も置けるなら置いておこう。

扉を閉める。

これでいい。

僕だけが会社を出る。

呪いは会社に残していこう。

翌日、誰かがロッカーを開けて困るかもしれない。

それは申し訳ない。

でも、その人にもいつかわかってほしい。

寄せ書きというものが、どれほど恐ろしいものなのかを。

そしてこの記事をきっかけに、一人、また一人と寄せ書きをやめていけばいい。

いつの日か、日本中の職場から色紙が消える。

退職する人は、何も持たされず、

「お疲れさまでした」

と言われて身軽に帰っていく。

書くことのない人が、色紙を前に十分間悩むこともない。

写真付きの色紙を前に、捨てるかどうか十年間悩む人もいない。

花瓶のない家に、突然巨大な花束がやってくることもない。

素晴らしい世界ではないか。

これで、寄せ書きという文化もなくなるだろう。

長い間、お疲れさまでした。

最後に僕からも、一言だけ書いておこう。

今までありがとう。

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