※『夜想い』の結末を含むネタバレがあります
いやー、めちゃくちゃよかった。
読み終わって、最初に思った。
この青春が、終わってほしくなかった。
始も、ケイティも、ひまわりも、巡も、そしてツグミも。
もっとこの人たちのことを知りたかった。
もっと会話を聞いていたかった。
もっと一緒に過ごしているところを見ていたかった。
物語の続きを知りたいというより、この人たちがいる時間そのものが終わってしまうのが寂しかった。
住野よるさんらしい会話も、文章も、設定も、少し変わった登場人物たちも、空想も、星空も、全部好きだった。
そして『夜想い』は、読み終わってからも終わらなかった。
「あれはどういうことだったんだろう」
と、ずっと考えてしまう。
特に、巡とツグミ。
二人はなぜあれほど重なるように描かれていたのか。
ツグミは巡に憑依していたのか。
それとも巡がツグミを空想していたのか。
そして後日譚で語る〈僕〉は誰なのか。
考えれば考えるほど、違う読み方が出てくる。
でも、それすらこの小説らしい。
最後にもう一度、読者であるこちらに「空想」をさせてくる。
今回はまず、『夜想い』を読んで僕が好きだったところを振り返り、そのあとでラストについて自分なりに考えてみたい。
『夜想い』のあらすじ
主人公は、中学二年生の山下始。
一年間の不登校を経て、再び学校へ通い始めた始には、一つの悩みがあった。
自分の感情がよく分からない。
父親がいなくなり、母親が悲しんでいる。
母親が悲しんでいること自体は、始にも分かる。
けれど、その悲しみを自分も同じように感じることができない。
どうすれば、人が大切な人を失ったときに抱く悲しみを知ることができるのか。
そんな始が目を向けたのが、大切な人を亡くした一人の少女だった。
高等部三年の遠山カレンデュラ。
通称、ケイティ。
ケイティには、津組航――通称ツグミという大切な人がいた。
しかし、ツグミはすでに亡くなっている。
ツグミを失ったケイティに話を聞けば、大切な人を失う悲しみが分かるかもしれない。
そして、その悲しみを知ることができれば、父親がいなくなった母親の気持ちにも近づけるかもしれない。
始はそう考える。
そんな中、始は校内の廊下に倒れているケイティ本人と出会う。
彼女は「星空中毒」という珍しい病気を抱えていた。
夜空の星を長時間見続けることで高揚し、その反動によって昼間には苦しむ。
さらに始は、ケイティの親友である「ひまわり」こと向井葵祢や、川辺巡と出会い、空想研究会に関わっていく。
彼らと過ごす中で、始はケイティが失ったツグミがどんな少年だったのか、彼が何を考え、何を残したのかを少しずつ知っていくことになる。
まず、この登場人物たちが好きだった
『夜想い』を読んでいて、一番大きかったのはこれかもしれない。
登場人物たちが好きだった。
始、ケイティ、ひまわり、巡。
そして、すでに亡くなっているツグミ。
みんな少し変わっている。
それぞれが自分だけの考え方を持っていて、会話をしていても簡単には同じところへ着地しない。
誰かが何かを言えば、思ってもいなかった方向から言葉が返ってくる。
真面目な話をしていたはずなのに、いつの間にか変な話になっていたりする。
逆に、くだらないやり取りの中から、急にその人の内側が見えてくることもある。
この会話が好きだった。
「ああ、住野よるさんの小説を読んでいるなあ」
と何度も思った。
少し変な人たちなのに、物語のために無理やり変わったキャラクターを作っているようには感じない。
それぞれが、自分の世界を持っている。
だから誰か一人だけではなく、この人たちが集まったときの空気が好きになる。
終盤には物語が大きく動く。
もちろん、その展開も面白かった。
でも、それと同じくらい僕の中に残っているのが、始たちが一緒にいる時間だった。
何かについて話したり、空想したり、少しズレた会話をしたり。
そういう時間をもっと読んでいたかった。
作中には、
「青春って早い。あっという間に、太陽が傾いていく。(p303より引用)」
という言葉がある。
本当にそうだった。
読み始めたときにはまだ始まったばかりだった彼らの時間が、気づけば終わりに近づいている。
だから読み終わったとき、
この青春が、終わってほしくなかった。
と思った。
すでに亡くなっているツグミが、どんどん近くなっていく
そして、この作品で特に面白かったのがツグミだった。
ツグミは、物語の現在にはいない。
すでに亡くなっている。
普通なら、過去に亡くなった人物は「誰かの過去」として描かれることが多い。
でもツグミは少し違った。
読み進めるほど、存在感が大きくなっていく。
ケイティがツグミについて話す。
ひまわりがツグミを覚えている。
ツグミが何を言っていたのかを知る。
どんなことを考えていたのかを知る。
どんな空想をしていたのかを知る。
そうやって少しずつ断片を受け取っていくうちに、読者である僕までツグミを知っているような感覚になってくる。
これがすごく良かった。
ツグミはもういない。
なのに、いる。
物語の現在を生きている四人と同じくらい、ツグミもこの物語の登場人物としてそこにいるように感じる。
そして、この感覚そのものが後半の「空想」や「幽霊」の話にもつながってくる。
始の「感情が分からない」という悩みが面白い
主人公の始も好きだった。
始は、自分の感情がよく分からない。
でも、何も感じていないわけではない。
人と話して笑う。
楽しいと思う。
誰かのことを気にする。
行動だってする。
それでも、自分の中に生まれているものが何なのか分からない。
始は、
「自分の中にあるのかも分からない魂の重さを探ってみたら、なんとなく、自分のはとてつもなく軽い気がした。(p87より引用)」
と考える。
この「魂の重さ」という表現が印象に残った。
周囲の人には当たり前にあるように見える感情が、自分にはないんじゃないか。
自分には何かが足りないんじゃないか。
始自身が、そんなふうに自分を見ている。
でも僕は読んでいて、始に感情がないとはまったく思わなかった。
むしろ始は、人の感情を知りたがっている。
だからこそ、母親の悲しみが分からないことが引っかかっている。
始が知りたいのは、母親の「悲しい」だった
ここが『夜想い』の始を考えるうえで、すごく大事だった。
父親がいなくなった。
母親は悲しんでいる。
でも始には、その悲しみを同じように感じることができない。
始が知りたいのは、単にツグミがどんな人間だったのかではない。
その先にある。
母親の悲しいという感情を知りたい。
そのために始が目を向けるのが、ケイティだ。
ケイティもまた、大切な人を失っている。
ツグミだ。
だったら、
ツグミを失ったケイティの話を聞けば、「大切な人を失う悲しみ」が分かるかもしれない。
そうすれば、自分にも母親の悲しみが分かるかもしれない。
この発想が、すごく始らしい。
普通なら「悲しんでいる母親に聞けばいい」と思うかもしれない。
でも、始は自分の中に同じ感情を見つけられない。
だから別の誰かの喪失を知ることで、その感情へ近づこうとする。
人の感情を理解するために、人の話を聞く。
しかも、亡くなった人について知っていく。
ここから始の物語と、ツグミの物語がつながっていく。
僕はこの構造がすごく面白かった。
「暇」と「寂しい」は違うのか
始の感情について特に印象に残ったのが、
「始、それって暇なんじゃなくて、寂しいんじゃない?(p259より引用)」
という言葉だった。
始にとっては「暇」だった。
でも、別の人から見れば「寂しい」なのかもしれない。
自分が感じているものに、自分では名前をつけられていない。
これって、始だけの話でもない気がする。
自分では「腹が立っている」と思っていたけれど、本当は悲しかった。
「疲れている」と思っていたけれど、本当は寂しかった。
自分の感情なのに、自分が一番よく分かっているとは限らない。
始はさらに、
「伝わらないんじゃなく、そもそも自分の持ってる気持ちの形がみんなと違うのかもしれない。(p216より引用)」
とも考える。
ここも好きだった。
感情がないのではなく、
感情の形が違うのかもしれない。
同じ「悲しい」という言葉を使っていても、全員がまったく同じものを感じているとは限らない。
始はその違いをずっと考えている。
そして、
「始はずっと、暇と寂しいの違いを考えていた。それから正しい悲しみと自分が抱く気持ちの違いを、または、友達を失ったことと、家族を失ったことの違いを。(p261より引用)」
と考えるようになる。
「正しい悲しみ」。
この言葉がかなり残った。
始は「正しい悲しみ」を欲しがっている
悲しみに正解なんてない。
そう言うのは簡単だ。
でも、自分だけが周囲と同じように悲しめなかったらどうだろう。
大切な人を失ったら悲しい。
家族がいなくなったら悲しい。
友達が死んだら悲しい。
世の中には、そういう「当然」がある。
でも始は、その当然を自分の中にうまく見つけられない。
だから、
「一体これ以上どうすれば、何を体験すれば。人の悲しみを自分のことのように感じれるのだろうか。始は、一緒に持ちたかった。(p267より引用)」
と思う。
僕はこの「一緒に持ちたかった」が好きだった。
始は冷たいんじゃない。
どうでもいいと思っているわけでもない。
一緒に持ちたいと思っている。
母親の悲しみを知りたい。
ケイティがツグミを失った悲しみを知りたい。
人が感じているものを、自分も感じてみたい。
でも、できない。
だから悩む。
この始の悩みがあったからこそ、僕は最後の言葉がすごく良かった。
「分かるようになる」で終わらなかったのが好きだった
始はいろんな人と出会う。
ケイティの話を聞く。
ひまわりと出会う。
巡と出会う。
ツグミという人間を知っていく。
そして、自分の家族についても向き合う。
これだけの経験をしたのだから、最後に始が、
「人の悲しみが分かるようになった」
となってもおかしくない。
でも、そうならない。
始は最後まで、母親と同じようには悲しめない。
それでも母親に言う。
「俺さ、母さんと一緒に悲しんであげられない、けど、何かあったら、いつでも言って。いるから。(p348より引用)」
ここ、本当に好きだった。
「分かったよ」じゃない。
「俺も悲しい」でもない。
「いるから」なんだ。
同じ気持ちになれなくても、誰かを大切にすることはできる。
相手の悲しみを全部理解できなくても、そばにいることはできる。
始は、感情が分からないことを克服したわけではない。
最後に突然、みんなと同じ感情を持つ人間になったわけでもない。
自分なりの、人との関わり方を見つけた。
僕はそこがすごく良かった。
「分からない」を無理に消さない。
分からないままでもいい。
でも、離れる必要はない。
分からないけれど、いる。
その答えがすごく優しいと思った。
ケイティと「星空中毒」という不思議な設定
そして、やっぱり星空中毒。
これも好きだった。
星空を長時間見ることで高揚し、その反動で昼間には苦しくなる。
かなり不思議な設定だ。
でも、物語の中ではそれが当たり前のように存在している。
こういう少し不思議なものを日常の中に置いて、そこから人の感情を描いていく感じも住野よるさんらしい。
そして読み進めると、「星」というものがツグミともつながって見えてくる。
ツグミは、
「人は死んだら星や風や花になるんだよ。(p3より引用)」
と空想している。
だからといって、僕は「星=ツグミ」と断定したいわけではない。
ただ、ツグミを失ったケイティが星空を見上げる。
星を見ると高揚する。
でも、そのあとには苦しさがやってくる。
この設定が、僕にはどこか「大切な人を思い出すこと」と重なって見えた。
思い出すと嬉しい。
でも、同時にもういないことも思い知らされる。
忘れたくない。
だから見ていたい。
でも見続ければ苦しくなる。
そんなふうにも読めた。
もちろん、これは僕の読み方にすぎない。
でも、最初は「面白い設定だな」と思っていた星空中毒が、読み終える頃には喪失と結びついて見えるようになっていた。
そこも面白かった。
「空想」という言葉の意味が変わっていく
もう一つ、この作品で好きだったのが「空想」。
最初は「空想研究会」という名前も、ちょっと変わった部活だなと思っていた。
でも読み終わる頃には、空想という言葉そのものの見え方が変わっていた。
ツグミは空想する。
死んだら何になるのか。
桜とは何なのか。
いろんなことを考える。
そして、自分の中だけに置いておくのではなく、人に話す。
「空想は独占するものじゃないという言葉を、本当にする。(p172より引用)」
この言葉が、読み終わってからすごく効いてくる。
ツグミは死んだ。
でも、ツグミの空想は死んでいない。
ケイティが覚えている。
ひまわりが覚えている。
誰かが話す。
巡が読む。
ツグミの頭の中にあったものが、別の人の中へ入っていく。
人はいなくなっても、その人が考えていたことまで同じ瞬間に消えるわけじゃない。
誰かの中に残って、また誰かへ渡っていく。
僕はこの描き方がすごく好きだった。
ツグミは桜についても空想する。
「生きるとは一瞬であること、生き物は必ず死ぬってこと、それでもなお終わるその瞬間まで生は美しいってこと。みんなが忘れないように、何者かが桜を作った。(p208より引用)」
本当の話ではない。
でも、空想だからこそ語れるものがある。
そして最後には、
「空想は、自分から新しい一歩を、踏み出すために。(p347より引用)」
という言葉まで出てくる。
空想は、現実から逃げるためだけのものではない。
現実を生きるために空想することもできる。
もういない人なら、なんと言うだろう。
自分には分からない人の気持ちは、どんなものだろう。
分からない。
だからこそ、空想する。
『夜想い』を読み終えて、僕はそんなふうに「空想」という言葉を考えるようになった。
ここからは、物語の終盤、巡とツグミの関係、後日譚について触れます。
未読の方はご注意ください。
ツグミはもういない。それなのに、ずっといる
後半を考える前に、まずツグミについて。
ツグミは死んでいる。
これは変わらない。
でも『夜想い』の中には、ずっとツグミがいる。
ケイティの中にいる。
ひまわりの中にいる。
言葉の中にいる。
空想の中にいる。
そして、やがてツグミに会ったことのない人間の中にまで入っていく。
巡だ。
ここがすごく面白い。
死んだから、その人との関係まで全部終わるわけではない。
むしろツグミの場合、死んだあとにも新しい「出会い」が生まれている。
巡は、生きているツグミとは会えなかった。
でもツグミの空想を読む。
そしてツグミを知っていく。
これは果たして「出会っていない」と言い切れるんだろうか。
この疑問が、最後の一文にもつながっているように思う。
巡は「いるのに、いない」
一方の巡は、とても不思議な存在だ。
巡は生きている。
そこにいる。
でも、クラスではまるで存在していないように扱われている。
誰かと示し合わせて無視している、という感じとも少し違う。
周囲が自然に巡の存在を認識していないように見える。
でも、始たちは巡を見ることができる。
話すこともできる。
この設定がずっと引っかかる。
なぜ巡だけこんな状態なのか。
そして終盤になると、周囲の人間が巡を認識するようになる。
ここでどうしても、もう一人の人物を考えてしまう。
ツグミだ。
ツグミはもういない。
でも、ケイティたちの中にはいる。
つまり、
巡は、いるのにいない。
ツグミは、いないのにいる。
二人が正反対の位置にいる。
しかも、巡とツグミには似ているところがある。
この二人が意図的に重ねられているように、僕には感じられた。
ツグミが巡に憑依していた?――憑依説
ここで考えたくなるのが、
ツグミが巡に憑依していたのではないか
という説だ。
僕は、この読み方も十分ありえると思う。
なにより、巡の存在の仕方がかなり幽霊的だ。
そこにいるのに、見えない。
一部の人には見える。
そして物語の終盤には、幽霊についてかなり意味深な言葉まで出てくる。
「実は、幽霊はそこにいるって信じる、たったこれだけのことで、見えるようになるんです。(p340より引用)」
さらに、
「周りはちょっとだけ見方を変えて、そう、探してやれば、全員に見える。(p340より引用)」
という。
これは巡そのものにも重なる。
ずっとそこにいたのに、見られていなかった人。
そして最後には、見えるようになる。
さらに巡とツグミは似ている。
後日譚では、巡とツグミの声まで重なって見える。
ここまで材料が揃っていると、
ツグミの幽霊が巡に憑依していたのではないか。
あるいは、
ツグミと巡が何らかの超常的な形で重なっていたのではないか。
と考えるのは自然だと思う。
『夜想い』にはそもそも「星空中毒」という現実には存在しないものが普通に存在している。
だから、幽霊だけを「そんなものはありえない」と排除する必要もない。
憑依説なら説明しやすいところも確かにある。
僕もこの可能性は残しておきたい。
ただ、僕自身はもう一つの読み方の方が好きだ。
僕は「憑依」より「空想が巡へ渡った」と読みたい
そのきっかけになるのが、巡がツグミのノートを読むことだ。
そこに残されていたのは、ツグミの「空想」。
巡はツグミ本人には会っていない。
それでも、ツグミが考えていたことに触れる。
どんなふうに世界を見ていたのか。
何を面白いと思っていたのか。
何を空想していたのか。
人間の内側にあるものを読む。
そして終盤、巡は、
「ツグミって生きてたらこんな感じじゃない?」
というように、会ったことのないツグミについて自分から空想する。
ここが僕には重要に思えた。
ツグミの空想を読む。
その空想を受け取る。
そして今度は、巡がツグミを空想する。
つまり、
ツグミの空想 → 巡を変える。
そして、
巡の空想 → ツグミにもう一度、声を与える。
そんなふうに見える。
これなら「空想は独占するものじゃない」という言葉にもつながる。
ツグミが死んでも、ツグミの空想は終わらない。
別の人へ渡る。
そして受け取った人の中で、新しい空想になる。
だから僕は、ツグミが物理的に巡へ憑依したというより、
ツグミの空想が巡の中へ入り、巡がツグミを空想できるほど二人が重なった
と読む方が好きだ。
もちろん、これが正解だとは言えない。
憑依説を否定するものでもない。
むしろ、どちらにも読めるように作られているように感じる。
p340の「幽霊」の話は何を意味しているのか
そう考えると、幽霊についての言葉も違って見えてくる。
幽霊は、信じれば見える。
思い出す人には見える。
少し見方を変えて、探してやれば見える。
これは、本当に幽霊について話しているのかもしれない。
でも同時に、人の記憶についての話にも思える。
亡くなった人はいない。
でも、その人を知っていた人が思い出す。
言葉を思い出す。
その人ならどうするだろうと考える。
そうすると、一瞬だけその人がそこにいるように感じる。
ツグミがまさにそうだ。
そして、もう一方では巡にも当てはまる。
巡は生きている。
本当はずっとそこにいた。
でも、周囲は見ていなかった。
探していなかった。
少し見方を変えれば、見える。
だからこの「幽霊」の話は、
死んでいるのに残された人の中にいるツグミ
と、
生きているのに周囲からいないように扱われている巡
の両方に重なるように思う。
ここでも二人は重なっている。
後日譚の〈僕〉は誰なのか
そして、一番考えたところ。
後日譚の〈僕〉は誰なのか。
最初に読むと、ツグミだと思う。
なぜなら、後日譚には「最後の面白い話」という言葉が出てくるから。
ツグミは生前、ケイティに最後の面白い話をすることを約束していた。
だから、
〈僕〉=ツグミ
と読むのが一番素直だと思う。
死んだツグミが最後にケイティへ語りかける。
そう考えると綺麗だ。
憑依説で考えるなら、巡と重なっていたツグミの声が最後に表へ出てきた、と考えることもできる。
ただ、僕にはもう一つ気になる読み方がある。
〈僕〉=巡
ではないか。
巡がツグミを空想しているのではないか
巡は、ツグミの空想ノートを読んだ。
そして、
ツグミが生きていたらどんな人間だったのか
を空想するようになった。
だったら後日譚で起きていることも、
「ツグミなら今、ケイティになんと言うだろう」
と巡が空想している場面だと考えられないだろうか。
ツグミは、
「人は死んだら星や風や花になるんだよ。(p3より引用)」
と空想していた。
だから、ツグミを空想する巡が、夜空からケイティを見ているツグミを思い描く。
そしてツグミなら、
「さあケイティ、どうか胸を張って生きて。」
と言うのではないかと空想する。
そう考えると、後日譚そのものが「最後の空想」になる。
本当にツグミの幽霊が話しているのかもしれない。
ツグミが巡に憑依しているのかもしれない。
でも、
巡がツグミの声を空想している
という読み方もできる。
僕はこの読み方がすごく好きだ。
ただ、「最後の面白い話」という言葉が引っかかる
とはいえ、〈僕〉=巡だと断定することはできない。
かなり大きな引っかかりがある。
後日譚冒頭の、
「あの日にも約束した〈僕〉の最後の面白い話」
という部分だ。
「最後の面白い話」を約束したのはツグミだ。
だったら、この〈僕〉はツグミと考えるのが自然だ。
もし巡なら、
なぜツグミの約束を、自分の約束のように語っているのか。
ここは完全には説明できない。
だから僕も、
「〈僕〉は絶対に巡だ」
とは思っていない。
〈僕〉=ツグミなら、「最後の面白い話」は綺麗につながる。
〈僕〉=巡なら、「空想が人から人へ渡っていく」というテーマが綺麗につながる。
どちらを選んでも、もう一方が気になる。
この曖昧さが面白い。
「君と出会えて〈僕〉は、本当に楽しかった。」
そして最後の一文。
「君と出会えて〈僕〉は、本当に楽しかった。」
僕はここがものすごく好きだった。
この〈僕〉と「君」は誰なのか。
僕が今のところ一番好きなのは、
〈僕〉=巡
君=ツグミ
という読み方だ。
巡とツグミは、生きている間には会っていない。
だから普通なら「出会えて」はおかしい。
でも、巡はツグミの空想に出会った。
ツグミについて知った。
ツグミなら何を考えるだろうと空想した。
直接顔を合わせていなくても、その人が残したものに触れて、その人を知ることはできる。
本だってそうだ。
もうこの世にいない作家の文章を読んで、
「この人の作品に出会えてよかった」
と思うことがある。
巡にとってのツグミも、それに近いのではないか。
だから最後に巡が、
「君と出会えて、本当に楽しかった」
とツグミへ言う。
僕にはそう読めた。
最後に「君」と「僕」に分かれる
この読み方でもう一つ好きなのが、
「君」と「僕」
という言葉だ。
後日譚では、巡とツグミの境界が曖昧になる。
巡なのか。
ツグミなのか。
憑依なのか。
空想なのか。
二人が重なっている。
でも最後には、
君と僕
になる。
別々の二人だ。
ツグミの空想を受け取ったからといって、巡がツグミそのものになったわけではない。
ツグミはツグミ。
巡は巡。
空想の中で一度重なった二人が、最後にもう一度分かれる。
そして巡は、自分としてこれからを生きていく。
僕はこの読み方が一番好きだ。
でも、〈僕〉=ツグミ、君=巡とも読める
もちろん逆も考えられる。
〈僕〉=ツグミ
君=巡
だ。
ツグミが巡という人間と出会った。
巡が自分の空想を受け取ってくれた。
巡の中で、自分はもう一度空想された。
だから、
「君と出会えて〈僕〉は、本当に楽しかった。」
とツグミが巡へ言う。
これも綺麗なんだよなあ。
さらに憑依説で考えれば、二人の境界そのものが一時的になくなっていた、と考えることもできる。
だから僕は、一つに決めなくてもいいと思っている。
僕自身は「巡→ツグミ」が好き。
でも逆もありえる。
憑依だった可能性もある。
空想だった可能性もある。
そして、その答えを作品が完全には教えてくれない。
最後にもう一度、読者に「空想」させてくる
でも、ここまで考えていて思った。
僕はいま何をしているんだろう。
ツグミならこう言うんじゃないか。
巡はこう考えたんじゃないか。
あの〈僕〉は巡なんじゃないか。
いや、ツグミなんじゃないか。
憑依していたのかもしれない。
全部、空想している。
これって、『夜想い』の登場人物たちがやっていたことと同じだ。
分からないから、空想する。
本人に聞けないから、空想する。
答えがないから、空想する。
ツグミが空想する。
その空想を誰かが受け取る。
巡がツグミを空想する。
そして最後には、読者が巡とツグミについて空想する。
ツグミの空想が、物語の外まで出てきた。
そう考えると面白い。
「空想は独占するものじゃない」。
本当に、ツグミ一人のものではなくなった。
ケイティへ。
ひまわりへ。
巡へ。
そして、読者へ。
すべてを説明して終わるのではなく、最後にもう一度こちらに「空想」させてくる。
そこまで含めて、うまいなあと思った。
忘れて前を向くのではなく、忘れないまま進んでいく
『夜想い』は、死について描いた物語でもある。
大切な人を失う。
家族を失う。
友達を失う。
でも僕には、
「忘れて前を向こう」
という物語には見えなかった。
むしろ、
忘れないまま進んでいけばいい。
という物語に感じた。
ツグミはもういない。
それでもツグミの言葉は残っている。
空想は残っている。
誰かの中に残っている。
それを無理に消す必要はない。
でも、ずっと同じ場所に立ち続ける必要もない。
だから、
「空想は、自分から新しい一歩を、踏み出すために。(p347より引用)」
なのだと思う。
空想の中で過去に閉じこもるのではない。
空想することで、その人から受け取ったものを自分の中に残しながら、次へ進む。
そして、
「不安定に感じても大丈夫。未来は、何度でも始まるから。(p355より引用)」
未来は、何かを失う前だけにあるものではない。
失ったあとにも始まる。
立ち止まったあとにも始まる。
誰かがいなくなったあとにも始まる。
その人を忘れなくても、始めることはできる。
僕は『夜想い』を、そんな物語として読んだ。
『夜想い』を読み終えて
読了後に感想を見て、意外と評価が分かれていることにびっくりした。
こんなに面白かったのになあ。
もちろん、好みが分かれるのも分かる。
星空中毒という不思議な設定。
住野よるさんらしい独特な会話。
少し変わった登場人物たち。
そして、読めばすべてが綺麗に説明されるわけではないラスト。
でも僕は、その全部が好きだった。
何より、この登場人物たちが好きだった。
始が好きだった。
ケイティが好きだった。
ひまわりが好きだった。
巡が好きだった。
そして、物語が始まったときにはもう亡くなっているのに、読み進めるほど存在感が大きくなっていくツグミが好きだった。
住野よるさんらしい会話も、文章も、設定も、少し変わった登場人物たちも、空想も、星空も、全部好きだった。
そして、読み終わったあとに、
「結局、あれはどういうことだったんだろう」
と考えたくなる余白も好きだった。
誰が誰を想っていたのか。
あの言葉は誰のものだったのか。
巡とツグミは本当に重なっていたのか。
きっと読み返したら、また違った見え方がするんだろうな。
答えが分からない。
だから考える。
だから空想する。
そして、そんなことを考えているうちに、またこの物語へ戻っている。
読み終わったのに、まだ終わっていない。
だから最初に感じた、
「この青春が、終わってほしくなかった」
という気持ちも、少しだけ叶っているのかもしれない。
本を閉じても、始たちについて考えている。
ツグミについて空想している。
物語は、自分の中でもう少しだけ続いている。
僕にとって『夜想い』は、そんな一冊だった。
僕にとっても、この物語と出会えて本当に楽しかった。
